ありがとう  1











 春まだ浅い日、初めて出逢った

 起こるべくして訪れた、それは運命の瞬間











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「ガウェイン!」

 吐く息も白い寒い朝。

 呼ばれて振り向くと、遠くから上官がしきりに自分を手招いているのが見えた。

 城の回廊に立つ、いつもはもっと遅い時間に出会う男の姿を認め、俺は今まさに振り下ろさんとしていた

剣の動きを止めた。

 毎朝この中庭で剣を振るう俺の日課を知っている彼は、それを妨害するような真似をこれまで一度もした

事が無い。 それをあえて破るのだから、今日の呼び出しはそれ以上に重要な事柄なのだろう。

 額に流れる汗を拭い、俺はカチンと音を立てて剣を鞘に収めると声の方へゆっくり歩き始めた。

 鍛錬を中断させた彼の人物は、いつになくにこにこと笑みを浮かべて部下の到着を待っている。

 一言、不気味だ・・・・・・というのがそれを見た素直な感想だった。

 厳しくて有名な男の普段はそうそうありえない上機嫌ぶりに、何やら言い知れぬ不安さえ覚えるほどだ。

 見ればその傍らには一人の少女が伴われている。 とても寒さを凌げるとは思えない薄い上着しか身につ

けていないにも関わらず、身体を震わせるでもなく、彼女はただ静かに佇んでいる。 細身で伸びやかな手

足を持つ、自分と良く似た髪色の小柄な少女。 この城では、終ぞ見かけた記憶が無い。

 その姿に何処か違和感を覚えたが、それも当然だろう。

 少女の白く細い腕の中に、とてつもなく不似合いな大振りの剣が収まっていたからだ。 それも不思議な

光景だったが、何よりも驚いたのは、それを振るうのが当の少女だという事実である。 頬にかかる髪を軽く

払いのけた拍子に見えたのは紛れも無く剣だこ。 しかも、よほど修練を積まねばこうはなるまいというくら

い、それくらい彼女の白い手は擦り切れ、あまつさえ血の滲む痕まで見て取れる。 すらりとした華奢な身

体の一体何処からそんな力を繰り出すのか。 俺は信じられない思いで彼女を凝視めた。

 そして、産まれたばかりの幼い王女とその兄である王子を除けば大人ばかりのこの城内で、そのアンバ

ランスな存在は奇妙にすら思えた。

 ひたすら少女へと不躾な視線を投げ続けた部下に対して、意味深に口角を吊り上げた上官の声が響く。

「彼女の名はロゼータ。 今日からアカデミーの騎士見習いになる娘だ。 お前に預けるから宜しく頼む」

「私に、ですか・・・・・・?」

「そうだ。 否やは認めない。 これは既に決定事項であるからな」

 (この娘が、騎士に・・・・・・?)

 一言たりとて喋らぬ少女は、紹介を受けても尚その口を開こうとはしない。

 俺は思いも寄らない依頼に困惑し眉をしかめた。

 これまで国内に女性騎士が誕生した例は少なくない。 とかく女性の地位が軽んじられる世において、こ

の国は平等を謳い、むしろ積極的にその向上に努めている。 故に、騎士にと願う者あらば喜んでその扉

を開き迎え入れてきた。 そういう意味ではこの件も取るに足らない日常の一場面である。

 自分の驚きは別にあった。

 彼はあろうことか、この娘を自分に預けると言ってきたのだ。

 おかしな話だと思った。 確かに自分は他の者達に比べれば多少早い出世の道を歩んでいる。 しかしそ

れでもまだ二十歳をいくらか過ぎたばかりの若造だ。 とても他人を教育するまでの技量は持ち合わせて

いない。 何より、今は自分の腕を磨く事に重点を置いており、誰かに気を配る余裕など持ち得ないし、ま

た持ちたくも無いというのが本音。

 けれど理由を問う隙も与えぬ彼の態度がそれを許しはしない。

 甚だ納得し難い気持ちを抱えながらも、ここは甘受する以外に選択肢は無いと諦めざるを得なかった。

「・・・・・・分かりました。 ご期待に添えるかどうかは分かりませんが、精一杯努めましょう」

 俺の答えに満足したのか、彼は満面の笑みでうんうんと肯く。

 すると、それまで俯いたままだったロゼータが徐に顔を持ち上げた。 初めてお互いの視線が絡み合う。

 俺は思わず息を呑んだ。

 おそらく、まだ十三、四くらいの年だ。 けれど、その瞳は年齢にそぐわぬほど恐ろしく冷めた色をしてい

る。何処かで何人もの人間を殺めてきた。 向けられた視線のあまりにも冷酷な印象に、もしそう聞かされ

たとしてもすぐに納得できたに違いないと本気で思った。

 そして、とても美しい、とも。

 冷たさを拭えない瞳。 けれどそれは何かしら強い意志を秘めているようにも受け取れる。 アメジストを

思わせる深い紫が彼女にどれほどの彩りを添えているか、果たして彼女自身は知っているのだろうか。

 そこまで思考を巡らせたところで、俺はハッとした。

 どんな理由であれ、このように特定の女性に惹きつけられたことなど、過去に一度とて無かったからだ。

 ましてや初対面の人間に多少でも関心を寄せるなど、これまでの自分を顧みればとても信じられない。

 大人びた印象を受けるせいかも知れないが、その年頃の娘が纏うにしてはあまりにも濃い陰影と、とも

すれば儚げにさえ映る姿に、無礼者と罵られても仕方が無いくらい俺の目は飽くことなく彼女を捉え続け

ていた。

 そして、何故か心がざわめくのを止められない。

 その感情が理解できなかった。














 翌日から、ロゼータの騎士見習いとしての生活が始まった。

 もちろん女性だからといって一切の甘えは許されない。 男と同じ訓練を受け、同じだけ、いや、それ以上

に傷だらけになりながら、それでも彼女は日々の鍛錬を怠ることなくこなしていった。

 しかし、どれだけ時間が経過しようともロゼータは周囲と打ち解けようとはせず、そんな彼女はますます

孤立し仲間との溝は深まる一方。

 それでも最初の頃はまだましだったのかも知れない。

 慣れない環境のせいもあるのだろうと、同期の者達から歩み寄る場面が幾度となく見受けられていた。

 なのに出てくる言葉と言えば憎まれ口ばかり。 相変わらずの冷たい瞳はやはり他人を拒み、あまつさえ

蔑みにすら見える時がある。 当の本人がそんな態度なのだから、一人また一人と去り、結局今では誰も

彼女に声を掛けようなどと思わなくなっていた。

 けれど、俺にはどうしても腑に落ちない。

 彼女を見ていると、何故かそれが本心だとは思えなかった。 自分の心を無理矢理押し殺して、意図的な

拒絶をしているのではないのかと、少なくとも俺の目にはそう映った。










「ここ、いいか?」

「・・・・・・どうぞ」

 ロゼータを預かった日から二週間ほどした、ある日。 いつものように一人で昼食をとる彼女に声を掛けた。

 隣どころか、あからさまに避けられている少女の周囲には誰一人として近寄る者はいない。

 そこには、くったくのないお喋りも、希望に満ち溢れた輝く笑顔も、何も存在しない。

 そんなロゼータの姿を見て咄嗟に口をついた言葉。 けれど、以外にも彼女はすんなりと許可を出した。

 てっきり拒否されると覚悟していた自分としては少なからず驚きを隠せない。 しかし、あれほど周囲を嫌う

少女から許しが出たのだ。 緩み出す顔の筋肉を抑えつつ、俺は向かい合う席へと静かに腰を下ろした。

「ここの暮らしにはもう慣れたか?」

「そうですね」

「何か不便があれば遠慮なく言ってくれ。 直ぐに改善させよう」

「有難うございます。 ですが、お気遣いなく」

 にべもない。

 ロゼータは応えつつも下を向いたまま食事を続ける。

 話し掛ければ返事をするものの、一事が万事この調子でとりつくしまもない。

「それだけですか?」

「何?」

 それまでもくもくとパンを口に運んでいた彼女の指先が動きを止める。 怜悧な瞳が真っ直ぐにこちらを

見た。 規則的な鼓動が、僅かに跳ねるのを感じた。

「お話はそれだけですかとお聞きしたのです」

「あぁ、まぁ」

「そうですか。 では、私はこれで」

 有無を言わせぬ態度で席を立ち、まだ食べ終わっていないトレイを手にしたロゼータは俺に背を向ける。

「ロゼータ!」

 思わず立ち上がり、振り返る気配も見せない彼女を、それでも呼び止めた。 美しい紫の瞳がゆっくりと

振り向く。

「お前は・・・・・・何故、ここに来た?」

 ずっと聞きたくて、聞けずにいた。

 頑なに心を閉ざし、周囲に疎まれ、それでもなお進み続けるその訳を。

 暫くの沈黙ののち、彼女は静かに呟く。

「強くなる為・・・・・・ただ、それだけです」

 言って、ロゼータは踵を返し再び歩き出す。

 俺は、その言葉の意味を考えずにはいられなかった。












 時折 ――――――

 訓練の合間に、または城内で何気なく擦れ違う度に、彼女は何かを訴えかけるかのような瞳を向けてく

る。 炎を思わせる強い光である筈なのに、その奥にはどうしようもなく深い悲愴が揺らめく。

 だからなのか。

 いつしか俺は、その理由が知りたいと強く望むようになっていた。

 どうしてこんなにも彼女が気になるのか。

 どうしてこんなにも、彼女から目を逸らせずにいるのか。

 少女の存在は既に己の中で大きな部分を占め始めていた。

 あの澄んだ紫の瞳がもし微笑んでくれたらどんなに嬉しいだろうと、それを想像するだけで心が躍った。

 もう、分っている。

 この止め処なく湧き上がる感情に付ける名前は、きっと一つしか無い。














「くっ・・・・・・!」

「どうした。 もう終わりか?」

「っ・・・・・・まだよっっ!!」

 ロゼータがここを訪れて三ヵ月後。

 その日、初めて彼女と剣を交えた俺は、驚きに目を瞠った。

 日々の訓練を経たロゼータが他の者達よりも遥かに抜きん出ている事は知っていたが、まさか自分とほ

ぼ互角に渡りあえるまでになっていようとは思いもしなかったからだ。

 もちろんこちらは十二分に手加減をしている。 が、それでも打ち込んだ時に彼女が受ける一撃一撃は相

当な重さを伴っているのだ。 それを殆どふらつきもせず柔軟に受けとめ、そこから流れるような次の攻撃を

確実に繰り出す。

 いくら筋が良くとも、努力だけでは補えない天賦の才。

 彼女は、まさに申し子と言えた。

 しかし、例え力は同等であろうと経験の差は歴然。

「まだまだだな、ロゼータ」

「っはぁっ!・・・・・・はぁっ!・・・・・っ!」

 これ以上は続けられぬという限界まで体力を消耗した彼女は、倒れ込むように青々と広がる芝の上にご

ろんと寝転んだ。 仰向けになり尚も胸を上下させ呼吸を整えようとしている。

 それでもなかなか治まらない動悸に苛立つのか、悔しそうに歯噛みし両腕で顔を覆ってしまう。

 その意味は、俺にも何となく察しがついた。

 確かな剣技を体得した彼女ではあるが、ここにきて多分、初めてとも言える完全な敗北を味わったのだ。

 共に学ぶ者達の中で、既にロゼータに敵う人物は誰一人としていないだろう。 それほど彼女の力は優れ

ている。 とは言っても、それは到底子どもの域を出るものではない。 彼女と自分の間には、簡単には越え

るべくもない絶対的な技量の差がある。 それを現実に突きつけられ、少女は力の違いをまざまざと感じ取

った。

 だが、それでいい。

 敗北を知り痛みを知る者は、必ずそこから這い上がろうとする。 更なる高みを目指して、より一層己を磨こ

うと必死で努力する。

 そうして強さを得た者だけが、何者にも負けぬ圧倒的な力を手にする権利を得るのだから。

「ロゼータ」

「っ・・・・・・来ないでっ!」

 未だ顔を覆ったままのロゼータへと一歩足を踏み出した途端、案の定、彼女の唇は即座に拒絶の言葉を

言い放つ。 やはり悔しさは拭えないのだろう。 こうなっては、もはや彼女が落ち着くのを待つしかない。

 仕方のない娘だと、しかし笑いながら自分もその場に座り込むと、やがてロゼータがぽつぽつと話し始め

た。

「やっぱり、勝てなかった・・・・・・分ってたけれど・・・・・・でも、それでも勝ちたかった・・・・・・強くなりたかっ

た」

 そう言ったロゼータの身体が小刻みに震え出す。

 俺は彼女の強烈に輝く瞳の強さを思い出していた。

 彼女をここまで駆りたてるものとは一体何なのか、それが知りたい。

 「ロゼータ。 俺はお前の強さを認めている。 そして、お前が何処の誰より努力を重ねていることも。 だか

らこそ聞きたい。 何故、それほどまでに力を求める?」

 問い掛けに、ロゼータは暫くの間黙り続けた。 やはり答えたくはないのかと半ば諦めかけた時、彼女が

小さく呟いた。

「ガウェイン様・・・・・・」

「何だ?」

「もし、私が戦以外で誰かを殺めた人間だとしたら・・・・・・あなたはどうなさいますか・・・・・・?」

 初めて彼女から自発的な歩み寄りがあったと喜んだのもつかの間。 まだ幼さの残る少女から紡がれたと

は思えないその内容に、俺はすぐに答えを返すことが出来なかった。 初めて対面した時に感じた印象その

ままの言葉だったからだ。

 信じられない思いと同時にそれを肯定したも同然の彼女を、一体何を言い出すのかと問う眼差しで見つめ

ると、ロゼータはそれまで横たえていた身体をむくりと起こし、何処か思いつめた瞳でぽつりと言った。



「私の両親は・・・・・・私がまだ幼い頃に、私を捨てたんです・・・・・・」