忘れられない









「じゃあ、始めるわよ、カイト」

「はい、マスター」

 まだ夜も明けきらぬ夏の早朝。

 そう言って俺に同意を求めてきた彼女は、些か緊張した面持ちでそっと目の前の存在へと腕を伸ばした。

 直後、機械特有の低い起動音が耳に響いてくる。

 自分にとって二度目となる音の振動。 それは、とても懐かしい記憶として今も心に残っている。

 彼女が手を伸ばした先には、一人の少女がベッドに横たわり静かに眠っていた。

 年の頃なら十六、七歳。 長い緑の髪が特徴の華奢な娘。

 俺もマスターも、ずっとこの瞬間を待っていた。






 そろそろ陽が昇ろうという時刻であるにも関わらず、部屋の中に外光の気配が全く感じられないのは、ここ

が地下室である為だ。 広さ三十畳程の室内は、壁を始めとしてベッドからソファまで、ありとあらゆる物が白

一色で統一されている。 白色灯に照らされ、とかく無機質に見えがちなそんな部屋に居つつも何処か柔らか

な空気が流れているのは、ひとえにこの家の主である彼女のお陰だろう。 やたらと長い肩書きを持つ科学者

だが、彼女はまだ二十代前半のうら若き女性。 その年頃の娘にしては些か固い職業故、性格や人柄も穿っ

た見方をされがちだが、いい意味で期待を裏切る彼女は明るく朗らかな人好きのするタイプで、とても自分の

感情に正直。 所謂、何処にでもいる普通の女性だ。 白衣を着ればそれなりに見える外見も、私服だと少し

幼い面立ちも手伝って、この空間にはむしろ不似合いとさえ感じる。

 俺の瞳には、そんな彼女はとても好ましく映っていた。



『指紋認証、終了・・・・声紋認証、終了・・・・・瞳孔認証、終了・・・・・・・・・・マスター登録を完了しました』



「ミク、瞳を開けて?」

 全ての作業を終えたマスターが声を掛けると、ミクと呼ばれた少女は少し青味がかった瞼を震わせ、ゆっくり

と覚醒し始めた。 エメラルドを思わせる豊かな緑の髪。 それと同じ輝きを放つ、南国の海の色にも似た大きな

瞳が次第に世界を認識していく。 一人で寝るには広すぎる大きなベッドに横たわっていた少女は、やがて自ら

上体を起こし、愛らしい瞳をぱちぱちと瞬かせた。

「私が分かる?」

 マスターが再び声を掛ける。 ここまでの過程で問題は何もないと分かってはいても、やはり不安は払拭でき

ないのだろう。 響く声音に、僅かな緊張が見え隠れしている。 けれど、それも杞憂に終るのだと俺は確信して

いた。 彼女の優秀さは、他でもない、この身が証明しているのだから。

 その事実を知らしめるように、声のする方向へと振り向いたミクが花も綻ぶ笑顔を乗せて、ことんと首を傾げた。

「・・・・・マスター?」

 途端、やっと安心したらしい。 マスターは、ミクの手を握りにこやかに言葉を発した。

「ええ、そうよ。 初めまして、ミク。 私の名前は伽羅って言うの。これからずっと宜しくね。 それと、ここに居る彼は

カイト。 あなたにとっては、お兄さん的な存在になるわね」

「お兄・・・ちゃん?」

 ミクの視線が、ここで漸く俺とぶつかった。 きらきらとした大きな瞳が、ベッドの傍らに立つ俺を見上げてくる。

 存在を噛み締めるように凝視め続ける少女の瞳に何処か落ち着かなさを覚えながら、俺はミクへと挨拶をした。

「ミクって言うんだね。 初めまして、俺の名前はカイト。 逢えるのを楽しみにしていたよ」

「初めまして、お兄ちゃん・・・・・・・・あの・・・もしかして・・・・・・今日までわたしの名前、知らなかったの?」

 この時、初めて彼女の名を知った感慨のまま俺が発した言葉に、やはりというか何というか違和感を感じたら

しいミクが、まさか信じられないといった顔で訊いてきた。

 うん。 その気持ちは良く判る。

「あー・・・・・・マスターがね、どんなに尋ねても教えてくれなかったんだよ。 楽しみが減るとか何とか妙な理屈を

つけて。 酷いだろう? 俺の妹の事なのに」

 やれやれと溜め息を吐いて大袈裟に嘆いて見せると、当の本人が慌てて弁解をし始めた。

「だ・・・だって! 前もって教えちゃったら新鮮味に欠けるじゃない! どんな名前なんだろう、どんな声なんだろ

うっていう、ドキドキワクワク体験が出来なくなるのよ!?」

「マスター・・・・・・・声はともかく、名前にそんな体験は必要ありませんよ」

 俺に対して、それがどれほど重要な事かと熱弁を振るう彼女を、冷ややかに一刀両断切って捨てた。

「ううっ・・・・・・酷い、カイトってば」

 よよ・・・・・・と泣き崩れる真似を見せる彼女を放っておき、俺は笑顔全開でミクに向き直った。

「まぁ、こんなマスターだけど、腕だけは超一流だから安心していいよ。 メンテナンスから生活全般まで、何でも

相談するといい」

 俺と彼女の主従とは思えないやりとりを、少女はぱちくりと瞳を瞬かせてただ見ている。

「・・・・・・こんなって何よ、こんなって」

 そりゃあ、あんまり頼りにはならないかもだけど・・・・・・と、俺の横で床にへたりこみ床にのの字を書くマスター

に、苦笑しながら手を差し伸べる。

「はいはい、分かりましたから。 俺が悪かったです。 だからマスター、そろそろミクに説明をしてあげて下さい。

いろいろあるでしょう、重要事項が」

 俺に手を取られて立ち上がろうとする彼女は、告げた最後の言葉にハッとし、俄に表情を引き締めてベッド

の傍らに置かれている小さな丸椅子に腰を下ろした。

 彼女が俺の手を離す瞬間、ギュッと一度だけ力を込めたのを感じ、それが、これからの長い長い時間を想っ

ての決意なのだと伝わってくる。

「ミク、これから私が話す事をよく聞いてね」

 居住まいを正したマスターの緊張が見て取れたのか、ミクもそれまでの和やかな雰囲気から一転、その可

愛らしい唇を引き結んだ。

「じゃあ、改めて自己紹介するわね。私の名前は、久遠伽羅。 認知ロボット工学の研究者よ。 あなたを作った

のは私だけど、その理論を確立させたのは私の祖父、久遠誠一郎。 その息子、つまり私の父である久遠誠

が研究を引き継いで、今は私の手にあるの。 あなたは自立型アンドロイド【コードネーム〓ミク】よ。 正確に言

うと、歌を歌う能力に特化したボーカロイドという括りになるわ」

「ボーカロイド・・・・・・」

 自分の存在を確かめるように、ミクは呟く。

「ええ、そうよ。 今現在、この家にはあなたを含めて三人のボーカロイドがいるの。 あなたと、カイト。 それか

ら、勇馬くん」

「ゆう、ま・・・・・・」

「少し事情があって、彼は明日の夜まで戻らないけれど、きっとカイトと同じく仲良くなれるわ」

「うん!・・・・・・じゃなくて、はい・・・・・・」

 マスターに対しての言葉遣いが適切ではなかったと思ったのだろう。 ミクはバツが悪そうに返事を言い直

した。 恥じ入り頬を赤らめる少女を前に、マスターが微笑む。

「いいのよ。 無理に敬語を使う必要はないわ。 それに、その方が私も嬉しい。 私はね、ミク、あなたに主従

関係を強いるつもりは無いの。 私達は、これから家族になるんだもの」

「え・・・・・・でも、それは・・・・・・」

 ミクが、初めて怪訝な表情を見せた。 当然の事だ。 俺達アンドロイドは、プログラミングされた全機能を駆

使し、起動したその瞬間から全てを理解し把握するよう出来ている。 組み込まれたネットワークを使えば、こ

うして会話をしている今でも現在進行形で手に取れる世界の動き。 主に対する接し方だとて例外ではない。

 作られた存在にとって、神にも匹敵するマスター。

 敬意を払うべき態度を望めぬのなら、それは憂慮に値する事態だろう。

「大丈夫よ、ミク。 何も心配しなくていいの。 あなたはあなたらしく、これから色々な事を知って欲しい。 人と

の暮らしや、季節の移り変わり、そして歌の素晴らしさを」

 ミクの不安を正確に受け取り、マスターは彼女の白い手をそっと両手に包み込む。 泣きそうな表情で凝視

める少女を安心させるように。

「それから・・・・・・これは、一番大切な事だけど・・・・・・」

 話の核心に触れるべく、マスターは握る両手に少しだけ力を込めて、時間にすればほんの僅か瞳を伏せ

た。

「あなたに組み込まれている感情プログラムは、人と何ら遜色のないものよ。 機微に疎いそこらの人間など

より、余程相手の心に寄り添える能力を持っているわ。 あなたの中に流れる赤い血も、痛みを感じる肌も、

人と同じ生理現象も、全ては似て非なるものだけど、でも、それでも!・・・・・・あなたは私にとっての家族

なの・・・・・・アンドロイドなんかじゃない、家族なの。 だから本当はその言葉を使うのも嫌なの。 今は、説

明をする上で必要だから仕方がないけれど・・・・・・」

「マスター・・・・・・」

 辛そうに眉を顰める主の姿。 ミクは、在る筈のない心臓が痛むとばかりに苦しげに俯く。

「だから私は、あえてあなたから従属命令系統を全て外した」

「え・・・・・・?」

 二人の間に、しばしの沈黙が訪れる。

 耳が音を拒絶するのか。 付き付けられた言葉の意味に、少女の瞳が驚愕に見開かれていく。

「何・・・・・・言ってるの・・・マスター・・・・・・」

「聞いて!ミク!」


 ――― 自分の中に命令系統が無い ―――


 機械で構築された己に欠如している機能。 だがそれは、許容するにはあまりにも大き過ぎるものだ。

 信じ難い事実を受け入れられずに身を震わす少女が握られた手を離そうとするのを、マスターが咄嗟に

引き止める。 けれど、ミクはふるふると弱々しく首を横に振った。 マスターの手がよりいっそう力強く少女

の手を握る。

 二人のやりとりに、俺は初めてこの現実を知らされた時の自分を思い出していた。

 命令系統を持たないアンドロイドが、どれほど危険な存在か。

 本来、この世に生み出される自立型ロボットは自分の身に害が及ぶ事象を除き、全ての行動を主の命

に従うよう作られる。 例え何らかの非常事態が起きた場合でも、エラーによる回路暴走が人への被害拡

大に繋がるのを未然に防ぐ為、緊急停止命令が下されるのだ。 そうして、人もアンドロイドも必要以上に

傷つく最悪の事態を免れる。 だからこそ、意思と感情を持つアンドロイドが人間社会に受け入れられてい

るに他ならない。 マスターの言葉は、それらを根底から覆す危険な思想だ。

「い・・・や・・・・・・嫌っ・・・・・・怖いっ!・・・・・・っ」

 絶望に囚われたかのように、少女は大きく首を振り、全てを否定する。

 狂乱の果てに社会から拒絶される無機物の末路。 心を持つ身にとって、それがどんなに恐怖であるか。

 だが、分かっていて尚、主は躊躇することなく茨の道を進むと言う。

 突き刺さる棘を、甘んじて身体中に受けながら。

「ミク・・・・・・ミク、お願い、落ち着いて」

 ポロポロと真珠のような煌めきを放ち流れ落ちる少女の涙を、俺は黙って凝視めた。 可哀相だが、ここ

は自分が口を挟むべき所ではない。 今後の信頼関係を築く上で、これは重要な意味を持つ。 ミクが自分

自身で納得し受諾しなければ。

「確かに、これはとても危険な賭けだわ。 ともすれば、あなたや他の誰かの命を奪いかねない、とても危

険な。 でもね、私はその罪を犯してでも、あなた達には誰かに支配される存在ではなく生きて欲しいの。

魂が無くても心臓が無くても、あなた達は生きてる。 呼吸をして食事をして泣いて笑って、そして感動す

る。 そんな当たり前の生を送って欲しい。 私は自分が神様になるつもりはないわ。 だから、人を創った

とは言わない。 けれど、人でないものを創った覚えもないの。 人でなく、無機質な機械仕掛けの人形で

もなく、あなた達は、ボーカロイドという一つの種だと思ってる」

 ミクは、ただ黙って耳を傾けていた。 必死に自分に語りかけてくる、その一言一句を全て聞き漏らさぬ

ように。

「もちろん、それだけのリスクを強いるのだから責任は全うするわ。 あなた達の幸せの為に努力は怠らな

い。 だから思った事は何でも言って。 不平や不満、愚痴でも何でも全て聞くから。 もちろん嬉しい事もよ。

主人としてじゃなく家族として。 私は、皆といろんな話がしたい」

「・・・・・・本当に、何でも?」

 ミクが恐る恐る、小さく呟いた。

「もちろん!」

「我儘だって・・・・・・言っちゃうかも」

「可愛いじゃない! むしろ、どんとこいよ!」

「もしかしたら・・・・・・き、嫌いだって、言っちゃう事だって・・・・・・」

「そしたら私も言い返すわ! それで、おあいこね!」

 嬉しそうに笑顔を輝かせるマスターを前に、少女は今度こそ大声を上げて泣き出した。 自分を丸ごと受

け入れてくれる存在の、何と幸福で得難い事か。 主の首に抱き付いて泣き続けるミクを、幸せだと言わ

んばかりの表情で抱き締め返すマスター。

「・・・・・・一件落着ですね」

 思った以上に自分も緊張していたのだと苦笑する俺に、「うん・・・・・・」 と一言だけ返し、主は頬に流れ

る自分の涙を隠そうと笑顔のまま俯いた。

 二人が流す綺麗な雫は、きっとこれから向かう幸せな未来への餞となるのだろう。







 *   *   *   *   *   *   *   *   *







「でね、勇馬くんはプロのミュージシャンとして活動してるから、ツアーなんかで家を空ける日も多いの」

 リビングのソファにちょこんと腰を下ろしたミクは、ふむふむと頷きながらテーブルを挟んで向かい合う

マスターの言葉に耳を傾けている。 まるで仲の良い本当の姉妹のようだ。

 などと微笑ましく二人の様子を眺めつつミクの横に座りアイスを頬張っていると、何やら不穏な流れの

話が聞こえてきた。

「そうそう、一つ言い忘れていたわ。 自分の身体機能についてだからもう分かってるとは思うけど、念の

為ね。 あなた達は人とは似て非なる存在だけど、逆に言えば、それだけ近いという意味でもあるの。

それは、心だけでなく身体もよ。 だから、生命の営みを司るもの、つまりミクには女性器が、カイトには

男性器があるわ」

「っ・・・・・・ゲホッ!」

「なっ・・・・・・!?」

 科学者だからか何なのか。 そのあけすけな物言いに、俺はアイスを吹きだしミクは笑顔を引き攣らせ

真っ赤になって固まった。

 言うに事欠いて性器の話を持ち出すとは。 彼女の中に年相応の恥じらいというものは無いのか。

「 ? ・・・・・・どうしたの? 二人とも」

 俺達の示した反応に疑問を乗せた表情で、件の人は不思議そうに訊いてくる。

「どうしたのって・・・・・・マスター、本気ですか?」

「何が?」

 口元を拭いながら問うた俺に、ますます分からないといった顔で問い返してきた。

「・・・・・・いえ・・・・・・何でもありません」

「えぇっ!?・・・・・・お、お兄ちゃん!?」

 早々に色々と諦めた兄の姿に焦ったミクが、もっと頑張れと視線で訴えてくるも、俺はその期待に応え

られそうもなかった。 そんな俺達を余所に、話は尚も続けられた。

「もし好きな人ができたとしても心配しなくていいのよ。 まぁ、今はまだ遺伝子情報が無いから子供は無

理だけど、行為自体には何の問題もないわ。 性感帯完備で膣はきちんと濡れるし、もちろん処女の証

だって抜かりは無いわよ。 陰茎も血流により勃起して体液が出るから、愛のあるHが出来るわ」

 愛のある、これが大前提ね、とにこやかに笑う彼女は実に晴れやかだ。

「っ・・・・・・!」

 両手で口元を覆い、ミクがますます赤くなって息を呑む。

「・・・・・・」

 可哀相に。 もうどうしていいか分からないと言わんばかりに涙目の少女に、同情を禁じ得ない。

 そして、マスターの若干引っ掛る言い回しは、この際置いておく事にする。 ここでもし突っ込んだなら、

間違いなく自爆行為だ。

 それよりも。

 空気を読まず、延々と終わりそうもない主の赤裸々な話に、俺は妙な違和感を覚えた。

 マスターは、気付いているのだろうか。

 第三者と・・・・・・アンドロイドでも人との恋愛ができうると説明してはいるが、男性型の性機能につい

てまでご丁寧に教えているお陰で、まるで俺とミクが肉体関係を結べると言っているようにも聞こえる。

 俺にとっては既知の事実だが、目覚めたばかりの少女にはあまりにも刺激が強すぎる内容だ。

 立場上、兄と妹であっても、所詮自分達は血縁すら無い、一人の男と女。

 それを、否応無く認識させてしまうのだと。

「あ、の・・・・・・わたし、ちょっと・・・・・・」

「ミク? どうした?」

 案の定、ミクはこれ以上聞いていられないとばかりにソファから立ち上がる。 しかし、耳に入ってしまっ

た情報が都合よく消える訳がない。 きっと頭の中でぐるぐると回っているに違いない。 その証拠に、彼

女は何処か焦点の定まらない瞳を潤ませてフラフラと歩き出したが、すぐにバランスを崩して身体が大

きく傾いでしまう。

「あ・・・・・・」

「危ない!」

 よろけた拍子に、受身の態勢も取れないまま頭がテーブルに吸い込まれそうになったミクに思い切り

両手を伸ばす。 咄嗟にその身体を受け止めれば、既の所で頭部の強打だけは免れた。

 大事に至らなくて良かったと安堵し、少女を腕に抱えて、ほっと息を吐く。

「大丈夫か?ミク」

「う・・・うん。 有難う、お兄ちゃ・・・・・・」

 腕の中に収まり、ついっと見上げてきた少女と瞳が合う。

 近くで見ると、よりいっそう瞳の輝きが際立っていて、とても愛らしかった。

「き・・・・・・」

「き?」

 思わず見惚れていた俺の顔を凝視し、ミクは茹でダコのような真っ赤な表情でわなわなと震え出す。



「きゃああああああああああ!? いやああああああああああああ!!!!」



 羞恥が極限に達したのだろう。 パニックを起こしたミクは声の限りに叫んだ。

 耳を劈くほどの絶叫に、流石はボーカロイド、声量は伊達じゃないと感心する一方で思わず怯んだ俺

をドンッと突き飛ばし、その勢いのまま、ミクはふうっと意識を失って床に倒れ込んだ。

「ミク!? お・・・おい、ミク!」

「大丈夫よ。 気を失ってるだけ」

 焦って少女を抱き起こす俺の肩をポンと軽く叩き、マスターは苦笑した。

 その、落ち着き払った彼女の様子に多少苛立ち、自然と己の声音が棘を孕む。

「・・・・・・やり過ぎですよ、マスター。 いくら生理的機能の説明だとしても、彼女はまだ十代の女の子

なんですから、露骨な表現は避けて下さい」

 非難めいた俺の物言いに意表を突かれたのか、マスターは僅かに驚いた表情をし、次いでニヤリと

人の悪い笑みを浮かべた。

「随分と大切にしてるじゃない。 まさか、一目惚れでもしたのかしら」

「今日が初めての出逢いではありませんから、一目惚れという言葉は不適切です」

 訂正するも恋愛感情については否定しない俺に、とんだ演技派ねと、マスターは呆れつつも意味深

な笑顔のままだ。 全く、やりにくい事この上ない。

 きっと少女の前で、淫らな欲望を全く匂わせなかったのを指しているのだろう。 そんなの当たり前だ。

 警戒されたら元も子もない。 彼女にとって、今の俺はあくまでも唯の兄なのだから。

 主の白い手が、ミクの頬にかかる艶やかな髪をさらりと除けた。

「・・・・・・手を出したら、コロスわよ?」

 徐に、探るような視線と共に不穏な音が部屋に響く。

「あれだけ煽るような台詞をさんざん吐いておいて、説得力ありませんね。 という訳で申し訳ありません

が、その約束はできかねます」

「・・・・・・でしょうね。 あんなに執拗な求愛行動をするくらいだもの。 言うだけ無駄ね」

 真っ直ぐに凝視め返し挑戦的に告げた俺に対し、諦めたように一つ溜め息を吐く彼女が柔らかく微笑

む。 やはりな、と俺は確信した。

 制裁を下すと言い放っておきながら、厚顔にも花を手折ると堂々と宣言する男に少しも動じない。

 行動に起こそうなどとは微塵も思っていない、上辺だけの牽制だ。

 いや、むしろ、これは俺への焚き付けだろう。 まぁ、これまでの経緯を考えれば彼女でなくとも気付く

だろうし、つまりは主からの容認と許可である。 俺の動きは全て筒抜けだったという訳だ。

 尤も、隠すつもりもなかったのだから当然といえば当然だろう。

「あなたの本気は解ってたけど、一応、念の為ね。 だって私にとっては、あなたもミクも大切な人だから。

幸せになれるなら、それでいいの」

 マスターの手が、愛しげに少女の髪を何度も撫でる。

「生まれてきたことを、この時代に生きることを、どうか、後悔しないで欲しい。 誰の為でもなく、あなた達

自身の為に」

 ね?と笑って、彼女は俺の顔を覗き込む。

 あぁ・・・・・・この人には、どうしたって敵わない。

「マスター・・・・・・有難うございます」

「いえいえ、どう致しまして」

 微笑み返して感謝を述べた俺に、私にとっても、それは幸せだからと笑う彼女。

 主が、とても誇らしかった。

「彼女を、部屋へ連れて行きます」

 無駄に広いこの家には、使い切れない程の部屋が余っていた。 掃除が大変なだけの大きな家を何故建

てたのかと、張本人である今は亡き祖父に対してマスターは常々愚痴を言ってはいるが、この小さな居城

を実は気に入っているのも知っている。 そんな天邪鬼で可愛いマスターがミクの為に用意した部屋へと運

ぶべく、意識を失った少女を両腕で抱き上げる。 全てが作り物であるとは到底思えぬ程の柔らかさと温か

さが、皮膚を通して伝わってきた。

「ねぇ、カイト」

「はい?」

 ミクを抱えて退室しようとした俺の背中に声がかかる。

 振り返ると、真剣な眼差しがこちらを凝視めていた。

 僅かの間の後、静かな音が紡がれた。

「あくまでも、その娘の意思を尊重すると誓ってくれる?」

 肯定以外は一切認めない。 そんな強い意志を覗かせる彼女に、俺は期待通りの答えを返す。

 当然だ。 言われるまでもない。 心を得られなければ、世界に意味などないのだから。

「もちろんです。 俺はそこまで外道じゃありませんから」

 そうなるように画策はしますが・・・・・・とは、あえて口に出さなかった。

「うん。 それを聞いて安心した。 ミクをお願いね」

 しかし部屋を出る直前、更に念を押すようにまた言葉が飛んでくる。

「泣かせたら、壊すわよ!」

「解ってます」

 命を断つの次は破壊かと、本気とも冗談ともとれる声音に思わず苦笑した。 その姿がまるで、娘に悪い

虫が付かないかとハラハラ心配する母親のようだったからだ。 もう、遅いというのに。

 今度こそ、何処かすっきりした表情で、この後ミクのシステムを微調整すると言うマスターを室内に残し

て白いドアを閉める。



 そう。

 心が得られなければ意味がない。 けれど、それを大人しく待っている程、お人好しでも愚かでもない。

 そういう意味では、自分は本当に性質が悪いのだろう。

 部屋への道すがら、俺の腕に全てを預けてくる愛くるしい少女を静かに見下ろす。

 少女への募る想いを抑えきれず、主が寝入った頃を見計らい、毎夜白い部屋へと通い続けた。

 何も応えてはくれない、こんこんと眠る彼女。

 それでも俺は、日々の出来事を飽くこと無く彼女に話して聞かせた。 そして最後に一つ、その紅く色

付く唇に、そっと触れるだけの口づけを求めるのだ。



 少女に宛がわれた部屋のドアを開けると、彼女の為に主が準備したのだろう、女の子らしい甘いふわ

ふわとした雰囲気で統一された家具や装飾が瞳に飛び込んできた。

 中へと歩みを進め、柔らかなレースのカーテンがかけられたすぐ横のベッドに、少女をそっと横たえる。

 その動作に刺激を受けたのか、閉じられたままだった彼女の瞼が小さく震え、その奥から艶やかなエ

メラルドグリーンが顔を覗かせた。

「お兄、ちゃん・・・・・・?」

「気がついたのか、ミク」

 ベッドに軽く腰掛けて顔を覗き込むと、ミクは数度パチパチと瞳を瞬かせ辺りを見回した。

「ここは・・・・・・?」

「お前の部屋だよ。 マスターが用意してくれたんだ」

 安心させるように笑いかけると、少女からも柔らかな微笑みが返ってくる。

 とても、温かな空気が流れていた。

「ごめんね、心配かけて」

「お前が気にやむことはないよ。 家族だからね。 心配するのは当然だ」

 申し訳なさ気に謝るミクの髪をそっと撫でる。 くすぐったそうに、少女は頬を赤らめた。

 その姿がとても愛らしく見え、ともすれば理性の箍が外れてしまいそうになるのをグッとこらえ、さ

りげなく話題を変えた。

「ミク、起きられるようなら、これから朝食をとらないか? マスターも呼んでくるから、三人で一緒に

食べよう。 もちろん今日から毎日、三度の食事は皆一緒にとりたいと思ってる」

 そう告げた俺に、ミクは困惑した表情を浮かべる。

「食事?・・・・・・だって、わたし達は・・・・・・」

 彼女の戸惑いは当然だ。 本来、機械である俺達に食事は必要無い。 身体メンテナンスとシステ

ム調整さえ怠らなければ、それだけで日々の生活が成り立つ。

 けれど。

「確かに、機能的観点から言えば、食事は不要なものだ。 それでも、マスターは俺達に味覚を与え、

嗜好を与えてくれた。 何故だか解るか?」

 彼女はふるふると首を振る。

「マスターが言っていただろう。 彼女は俺達を家族だと思っていると。 ただの無機質な機械ではなく、

人としての喜びを分かち合いたいと。 だからこそ、俺達は限りなく人間に近い存在としてここに居る。

何かを好きだと思ったり、美味しいと思ったり。 それらは、小さなことに思えて、実はとても重要なも

のなんだ。 実際に触れてみれば、お前にもきっと解るよ」

「うん・・・・・・有難う、お兄ちゃん」

 俺の言葉に頷き、ミクはゆっくりと上体を起こす。

「あぁ、でも、その前に一つだけ頼みがあるんだけど」

「え?」

 首を傾げる少女の手を取った。

「少しだけ、抱き締めさせてくれないかな」

 驚きに、唯でさえ大きな瞳を更に見開き、思わず取られた手を引こうとする彼女をやや強引に引き寄せ

ると、その反動で華奢な少女の身体が俺の腕の中にすっぽりと収まる。

「お兄ちゃ・・・・・・っ」

 抗う背に両腕を回し、胸に抱き込んだ。

「ごめん。 でも、少しだけでいいんだ。 このまま聞いて欲しい」

 そう言うと、戸惑いつつも俺の懇願を聞き入れたミクは、それ以上抵抗することなく大人しく俺の言葉を

待ってくれた。

 触れ合う身体が相手の熱を伝え、とても心地いい。 彼女も、そう思ってくれているだろうか。

「ミク、本当に有難う」

「・・・・・・お兄ちゃん? どうしたの?」

 いきなりそんな台詞を言われても、彼女は困惑するばかりだろう。 でも、今の俺にはそれしか思い浮

かぶ言葉がなかった。

「今、ここに居てくれる、それが本当に嬉しいんだ。 ずっと、逢いたいと思ってた。 ずっと、話したいと思っ

てた。 お前の存在を知った時から、ずっと、ずっと」

 まるで、愛の告白だ。 でも、どうしても言わずにはいられなかった。 溢れる想いを、少しでも伝えたかっ

た。 だが、初めて逢ったばかりの見知らぬ男にそんな重い気持ちを告げられるのだから、嫌悪感を抱かれ

てもおかしくはない。

 沈黙が流れた。

 時間にすれば僅か。 けれど緊張しているせいで、それは途方もなく長い空白に感じられた。

 しかし、拒絶を覚悟していた俺に、その時は訪れなかった。

「お兄ちゃん・・・・・・」

 少女の細い腕が、恐る恐るといった風に俺の背に回される。 その指先が、きゅっと服を掴んできた瞬間、

俺は彼女の背を掻き抱くように更に力を込めて抱き寄せた。

「あ・・・・・・」

 僅かに苦しげな様子を見せたミクは、それでも俺をひとつも咎めることなく受け入れてくれる。

 それが、何よりも嬉しかった。

「お兄ちゃん・・・・・・・わたしこそ、有難う。 待っててくれて、嬉しい。 巡り逢えて、すごく嬉しい」

「ミク・・・・・・」

 心に、甘い喜びが広がる。

 その気持ちのままに、俺はミクの額に、頬に、親愛の口づけを落とす。

 何度も、何度も。

 僅かに身体を震わせ、夢見るようにうっとりと見上げてくる少女は、この世の誰よりも美しく可憐だった。

 今はまだ無理でも、いつか俺の全てを受け入れて貰えるように。

 身体中に渦巻く、焦がれる想いが伝わればいいと。

 俺はまた、少女を抱き締める。



 先にダイニングに行っていると告げ、まだ夢心地のミクを残して俺は部屋を出た。

 彼女の心の中が、俺で一杯になればいい。

 寝ても醒めても、他の何ものも瞳に入らぬように。

 そしてそれは、遠い未来ではないだろうことも、何処かで確信していた。



 俺は、ずっと待っていた。

 ずっと、ずっと。

 彼女が目醒める、この時を。

 白い部屋で眠り続ける少女。

 毎日、毎日、毎日、毎日。

 その声を。

 仕草を。

 眼差しを。

 どれほど切望したか、心の中を曝け出したなら。

 少女はどんな顔をするのだろう。

「ミク・・・・・・」

 彼女の名を小さく呟く。

 腹を空かせた狼に狙われ捕えられる少女の運命に、愛しさを込めて。



 手の中に落ちてきた甘い蜜。



 魅惑の果実は、決して逃がさない。






                                ***********************************
                                         覚醒した日。
                                    ここから運命が始まるのですよ。