「大丈夫か?」
「……全然大丈夫じゃないよ……」
室内がぐるぐる回って見える。
「揺れに慣れるまでの辛抱だ。吐き気が落ち着くまで、そうして横になっていなさい」
涼が差し出した酔い止めを手に取るだけの、精神的・体力的な余裕もない。
「食欲ないのはわかるけど、何か胃に入れとかないと……吐く物がないと、逆につらいぞ」
「う〜……っ」
涼に支えられて薬を服みながら、里緒は涼を力なく見上げた。「いや。俺も涼も酔わなかったな」
涼は枕元に椅子を引き寄せ、里緒の髪を撫でた。
「初めての、それも大型の船に乗って旅行することで、浮かれてたからね。二人で、甲板を走り回ってた」
「へえ……」
「どちらかというと、父さんのほうが苦しんでたな……母さんも、少しは酔ったみたいだけど」
途中、嵐に遭遇したのだから、それなりに揺れは激しかった筈だ。
「……今は、酔ってないの?」
「おまえがそんな状態なのに、俺まで酔うわけにいかないだろう」
「理屈になってない……」
里緒は手を伸ばし、涼の袖を引っ張った。
「?」
「・・・・・・抱っこして」涼は苦笑しつつ、里緒の隣にもぐり込んだ。
「もう少し、言いようがあるだろ?」
華奢な体を抱きしめ、その額に唇を落とす。
「少し冷たいな……。気持ち悪いか?」
里緒は力なくかぶりを振った。
「さっきより、ちょっとまし。……きっと、涼兄が抱きしめてくれてるからだね」
「そんなことで、気分が良くなるのか?」
「うん。だって、涼兄の手、すごくあったかくて、気持ち良いんだもん」
ほっと息をつく。背中を撫でる大きな手の感触が、胃の辺りで蟠っていたもやもやを溶かしていくようだ。
「ん〜……眠い……」
「いいよ。寝ても。 起きる頃には、少しは船酔いも治まってるだろう」
「うん……」
里緒はごそごそと身動きすると、一番眠りやすい場所を捜した。
「ごめんね、涼兄……。ちょっと寝るね」
「ああ。お寝み」
小さく吐息をついて目を閉じた里緒は、間もなく寝息を立て始める。
「……」
涼は息をつき、里緒の頭をそっと掻き抱いた。
里緒に不審を抱かせないように自制して、それでも抑えきれない震えが、指にのぼる。
こうして船に乗ることはできているのだから、確実に、傷は癒えているのだと思う。
「里緒……」
震える声が、穏やかに眠る少女を呼ぶ。
―こういう時、だ。
思い知らされるのは、いつも、独り取り残された時。
何があっても守るのだと、そう決めた筈の少女に、自分こそが守られているのだと。
船体が、大きく揺らぐ。
息苦しさに目を覚ますと、室内は真っ暗だった。満ちた月の明かりと、自分を抱きしめる腕が、現実を思い出させる。
あれほど苦しんでいた船酔いは、涼の言うとおり、眠っている間に落ち着いてしまったらしい。
……のだけれど。
「……涼兄?」
声をかけると、涼ははっとしたように身を竦ませた。
「起きた……のか?」
「うん……。―大丈夫?」
里緒は、涼の額に指を伸ばした。冷や汗の浮いた肌は、不快な冷たさを伝えてくる。
「やっぱり・・・・・・怖いの?」
かぶりを振りかけた涼は、思い直して、素直に頷いた。
「ああ……。理性では、わかってるんだけどね。『あの時とは違う』って。でも……怖いよ」
「……仕方ないよ。だって、あんなに大きな事故で……涼兄は、目の前でお父さんとお母さんを喪ったんだもの。
忘れられるわけ、ない……」
里緒はゆっくりと身を起こし、涼に唇を重ねた。
「ん……」
柔らかな茶色の髪に指を埋め、頬を傾けて、優しく口接ける。
涼は、さらりと降りかかる長い髪を撫で、里緒のキスに応えた。
「……」
小さく吐息をついた里緒の頬は、ほんのりと染まっている。
「・・・・・・あのね。 あたしは、怖い時とか、悲しい時とか・・・・・・そんな、自分がつらい時に、涼兄に抱きしめられたり、
キスしてもらったりすると、いつも、安心するの……。『あたしを守ってくれる人がいるんだ』って……」
「……それで、今、俺にキスを?」
涼の言葉に、真っ赤な頬で、こくんと頷く。
「……涼兄は、駄目かな?あたしじゃ……涼兄を守れない?」
涼は小さく笑った。
「……なんで、そんなに自信なさそうにしてるかな」
頬に触れたままの里緒に応えて、柔らかな頬を包み込む。
「おまえにしか、守れないよ。ずっと昔から……俺を支え、守ってくれたのは、おまえだけだった」
そのまま引き寄せ、唇を重ねると、里緒は胸に手を置いて、涼を受け入れる。
「好きだよ、里緒」
「あたしも・・・・・・ずっと、涼兄が好き」
潤んだ瞳で応える里緒にクスリと笑って、涼は里緒の頭を胸に引き寄せた。
「……本当に、おまえといることが許されてるんだな……」
手違いで従兄弟の抄本を自身のそれと取り違え、禁忌なのだと戒め―里緒までもを巻き込んだあの苦しみが、
遠い日のようだ。
「『涼兄』に報告したら、本当に『兄妹』じゃなくなっちゃうね」
旅路の果てに待つ人を思う里緒に、涼は悪戯っぽく訊ねた。
「おまえは『兄妹』のままがいいか?」
「そっ……そんなわけないでしょ!?」
がばっと身を起こした里緒は、クスクスと可笑しそうに笑う涼を睨んだ。
「ううぅ……意地悪」
ボフッと頭を預けると、涼の手が愛しそうに髪を撫でてくれる。
「まあ、俺の愛情表現と思って、軽く流してくれ」
「そんな愛情表現、いらない……」
拗ねる里緒の額に、涼の唇が触れる。
「里緒」
瞼に。頬に。馴染んだ温もりが、羽のように触れては離れる。
里緒は顔を上げ、涼を見た。月明かりの中に、穏やかな微笑みが浮かぶ。
「……涼兄、もう大丈夫?」
「そうだな……こうして、おまえと話してると、気が紛れるな」
里緒もつられて笑う。
「里緒、もう1回キスして」
すっと頬に触れられ、里緒は顔を赤らめた。
「えっ……あたし、から?」
「そう」
からかわれているのかとも思ったが、涼の熱っぽい瞳は、じっと里緒に注がれている。
「……無理……」
里緒は、かくんと涼の胸に頭を置いた。
「『無理』って……」
涼は苦笑した。
「さっきは、してくれたのに?」
「さ、さっきとは状況が違うもん。そんなにじっと見られてちゃ、羞ずかしくてできないよっ」
「……じゃ、見てなきゃいいんだ?」
「揚げ足取らないっ」
自分の上できゃわきゃわ騒いでいる里緒を抱きしめ、強引に口接ける。
「ん、んっ……」
何度もキスを繰り返すと、やがて里緒の抵抗も収まり、互いへと想いを伝え合うキスに変わる。
「……もうっ」
耳まで真っ赤になって、里緒は涼の頬を引っ張った。
「涼兄のキス魔っ」
「おまえ限定でね。本当は、もっと……なんだけど」
「……ここまでっ」
里緒は涼の隣に横たわると、腕枕するために涼の腕を伸ばさせた。涼は素直に里緒の頭を載せ、髪を爪繰る。
「……このまま眠って、目覚めたら……『涼』のいる国だな」
「……うん」
―十年ほど会っていない実兄。
「『涼』に会えれば……やっと、克服できるような気がする」
『涼』の身代わりなのだと屈折していた心も。
『涼』の在るべき場所を奪い続けてきた罪悪感も。
「……楽しみだね」
小さく笑い声をもらす里緒に応える。
「そうだな……」
波の揺らぎで、射し込む月明かりがゆらゆらと踊る。
「もう眠ろうか」
「うん……そうだね」
そっと、互いの体に腕を絡め合う。
「……愛してるよ」
小さく寝息をたて始めた里緒の耳元に囁いて、涼は微睡に身を任せた。