ほんの少しの寂しさと
結婚して初めて迎える正月。
年末から続く数日の休みを利用して、亮と里緒の二人は久しぶりに実家へと帰省することにした。
おりしも世間は帰省ラッシュ。
けれど、その波と逆に東京へと向かう彼らの車はさしたる渋滞にも阻まれずに済んだ為、慣れない
長距離の旅ではあったが、同乗していたジョリーにとっても特に問題のない快適なドライブだった。
しかし、ようやく着いた当日から大晦日を挟み年明けまで。
しばらく顔を見せなかった子ども達の来訪で浮かれた両親 ―― 特に父親 ――
との毎夜毎夜の
どんちゃん騒ぎに、さすがの若夫婦も疲労困憊。
席を立とうとしても無理矢理戻され拒否は許されない。 その光景はまるで、俺の酒が飲めないのか
的な上司に逆らえない平社員のようだった。
お陰で連日の睡眠は普段の半分にも満たず、目の下にはくっきりとしたクマ。 休暇であるはずなのに
体力はみるみる内に奪われていく。
そんなこんなの一月三日。
今夜にも自宅へ帰ろうという日の朝。
亮は未だ疲れの取れない身体をコキコキと鳴らしながら、キッチンに立つ母親へと声をかけた。
「・・・・・・母さん、悪いけどお茶入れてくれるかな。 うんと濃いヤツ」
――― もうダメだ。
ダイニングテーブルの椅子に座りバタッと上体を倒れ込ませた息子に向かって、母はあっけらかんと
言い放った。
「まったく、若いのにだらしないわねぇ・・・・・・はい、お茶。 うんと濃くて熱いわよ」
「・・・・・・この場合、若さは関係ないと思うけど・・・・・・。 そういえば、父さんは?」
亮は目の前に置かれた湯飲みに手を伸ばしズズッと一口啜った後、いつもならとっくに起きていて
自分達を待ち構えている父親の姿が無いのに気付き聞いてみる。
「嬉しそうな顔で里緒と一緒にジョリーの散歩に行ったわ」
「・・・・・・やられた・・・・・・」
亮によって禁酒命令の出ている里緒は、連夜の宴会でも飲んでいない。 それにより体の疲れ方に
差が出てしまい、今朝は不覚にも彼女が起き出す気配に全く気付けなかった。
――― 夫婦の甘いひとときを奪うなんて酷すぎる。 愛する妻との姫始めだってまだなんだぞ。
眉間に軽く皺を寄せ、里緒が聞いたら羞恥で悶絶しそうなセリフを脳裏に浮かべる亮。
旦那様はいささかご立腹である。
「まぁ、いいじゃないの。 あんた達がなかなか来ないから、お父さん嬉しくて仕方が無いのよ。
ところ
で、どう? 潤いのある生活送ってる?・・・・・・なんて、聞くだけ野暮かしら」
「・・・・・・楽しそうだね、母さん」
にっこりと微笑んで突っ込んだ質問をしてくる母。 何かにつけて子どもで遊ぶ、困った人だ。
二人が結婚してから、その傾向はますます顕著になっている。 うっかり話に乗るとどつぼに嵌まる
のは目に見えている為、亮はあえて聞き流した。
――― あーあ。 これが里緒なら、からかいがいがあるってものなのに。
母はぼそりと呟き、亮と向かい合って自分も茶を飲み始める。 娘と違い、回を重ねる毎に鍛えら
れて躱し方を覚えてくる息子に、彼女はちょっとつまらなそうな顔を見せた。
それからお互い無言のまま、しばしお茶タイム。
やがて母親の視線が、じっと亮に据えられた。
「・・・・・・こうして見ると、何だか感慨深いわねぇ・・・・・・」
「何が?」
「あんなに小っちゃかったアンタ達が、結婚して夫婦になるなんて」
「・・・・・・ああ」
なるほど、そうかも知れないと亮は思う。
自分達は少し特殊な例だが、それが無くとも、言葉も喋れなかった小さな赤ん坊の時から育てた
子どもが夫婦という同じ立場に立つのだ。 当たり前のことだが、妙な感覚があるのも事実だろう。
母は顎の下で両手を組み、眩しそうな表情で亮を見つめた。
「先月、掃除をしてた時にね。 しまい込んでいた古いアルバムを見つけたものだから、久しぶりに
眺めてたの。 ちょうど、里緒が生まれた頃のものよ」
と。
突然、彼女は可笑しそうにくすくすと笑い始めた。
「何、いきなり。 どうかした?」
「いえ実は、それを見ててね、ちょっと思い出しちゃったのよ。 あなたは覚えてないと思うけど、里緒
が生まれた時、その場にはお父さんと兄の涼と、そしてあなたが居たの。 生まれてきた赤ちゃんを
早く見たいんだって、一緒についてきてたのね。 で、当の里緒を見た瞬間、あなた何て言ったと思う?」
更に大きく笑い出した母に、何となく嫌な予感がする。
「何てって・・・・・・」
「おばちゃん! 僕、この子をお嫁さんにしたい! って言ったのよ」
「・・・・・・勘弁してくれ」
―― 嫌な予感的中。
子どもの無邪気さというのは恐ろしい。 思ったことが次から次へ口をついて出てくるのだから。
齢六歳にして娘さんを僕に下さい宣言。 しかも出生直後の赤ん坊をつかまえて。
全く記憶に無い出来事を暴露され、亮は赤くなる顔を隠すように手の平で押さえた。
しかし、自分がそんな小さい頃から彼女の婿に立候補していたとは。 呆れるのを通り越して、我
ながら感心するほどの執着ぶり。 光源氏も真っ青だ。
「母親のあたしが言うのもなんだけど、まだ生まれたばかりの、それこそサルみたいなしわしわの
赤ん坊を見てよ? この子はいきなり何を言い出すのかと思ったけど、あんまり真剣に瞳をキラキラ
させて詰め寄ってくるから、思わず 『はい』 って言っちゃったのよね。 ほんと、人生何がどうなるか
分からないわ」
母はしみじみと何度も頷く。
「で、その後がまた大変でね。 私がいきなり嫁に出す許可を出しちゃったものだから、お父さんが
青くなっちゃって。 子どもの言うことだからっていくら宥めすかしても手がつけられなくて困ったわよ。
六つの子どものセリフを真に受けちゃって・・・・・・父親って何でああなのかしら。
どっちが子どもか
分かりゃしない」
本人が聞いていたら、それこそ猛烈に泣いて抗議しそうな話だ。
生まれたばかりの可愛い我が子を、しかも初めての女の子をいきなり嫁にやるなどと言われれば、
彼ならずとも世の父親は大抵そうなるだろう。 その状況が目に浮かぶようで、非常に物悲しい。
―― あぁ。 父さん、ごめん。
全く覚えてないとはいえ、とりあえず亮は心の中で謝っておく。
「それから、あなた達はいつも三人で遊ぶようになって。 私もお父さんも、いつの間にかそんなの
すっかり忘れてたわ。 結局は、その通りになったけれどね」
「いや、まぁ・・・・・・何と言っていいやら」
結果的に自分の願いを叶えてしまった亮にとっては、父にかける言葉もみつからない。
「我が娘ながら、いい男を捕まえたと思うわ。 何たって自慢の息子だもの、お父さんが反対できる
わけないしね。 ・・・・・・というより、きっと最初から分かってたのかも知れないわ。
娘を奪っていく、
自分の代わりにこれから里緒を守っていく男性を・・・・・・。 女の勘ならぬ、男の勘かも」
いつの日か、娘の隣に並び立つ男。
手の中から、するりと抜け出すように。
いとも簡単に連れ去っていく。
父親は、ただ漠然と。 けれども何かを感じ取ったのだ。
「・・・・・・俺は父さんから、娘を攫った男に対する理不尽な怒りさえも奪ってしまったね」
それでも、決して返してはやれない。
あの日、自分は出逢ってしまった。
だから幸せな顔しか見せない。
選択は間違っていなかったのだと。
自分の目に狂いは無かったのだと、信じて欲しいから。
「そんな風に思う必要は無いわ。 きっとあなたが感じている以上に、お父さんは何もかも分かってる。
ああ見えて結構スルドイのよ。 だから、仲睦まじい姿を思いっきり見せつけてあげなさい。 それが
一番嬉しいんだから」
もちろん悔しくもあるけどね。
ふふっと、母は悪戯っぽく笑う。
「そう・・・・・・そうだね。 それじゃあ、今日一日くらいは里緒を貸してやるとするかな」
もう、あなたの元には戻せないけれど。
今は世界で一番の感謝を込めて。
「忘れ物は無いか? 全部持ったか?」
「大丈夫だって。 お父さんてば、もう何回目?」
「だって心配じゃないか」
しつこいほどの父からの確認に、里緒は呆れながら答えた。
帰り際、あれもこれもそれもと土産を大量に持たされ、あっという間に来た時以上の荷物の山。
車にして大正解な帰り道だ。
「お父さんたら、そんなに言わなくたって大丈夫よ。 里緒達も子どもじゃないんだから」
「お前が言わな過ぎなんだ」
妻の言い分に夫はすかさず食ってかかる。 父親としてはいくら言っても言い足りないのだ。
「はいはい、分かったから。 もうその辺でね」
たしなめる方も楽じゃないわよ。
里緒は苦笑する亮に向かって小さく溜め息をついた。
「父さん、これからはもっと来るようにするから」
「・・・・・・絶対だぞ。 その言葉、忘れるなよ?」
「肝に銘じて」
まるで脅すように念を押す父。 破ったら後が怖そうだ。
「じゃあ、お父さん、お母さん。 またね」
「あ、里緒っ」
「ん?」
玄関を出て車へ向かおうとした時、ふいに母が呼び止めた。 しかし振り返っても、彼女は黙った
ままで何も言おうとはしない。 ただ、じっと娘の体を見つめているだけ。
「・・・・・・どうしたの? お母さん」
問い掛けても答えは返ってこない。
そうしてひとしきり里緒を眺めた後。 不思議そうな顔の娘に、母はにっこりと笑う。
「ごめん、何でもないの、気にしないで。 ・・・・・・それより・・・・・・亮」
一番気になる気にしないでだな・・・・・・と母を見ていた亮と彼女の瞳がぶつかる。
「何?」
「吉報は、まず最初に私にね」
「・・・・・・・・・・・」
にこにこと笑みを浮かべる母はそれ以上を語らない。
一方、何かを分かり合ったかのように見つめ合う母と息子を交互に見比べ、訳の分からない
父と娘は困惑するばかり。
「なっ・・・・・・何? 何? 何のこと?」
「母さん、それだけじゃ分からんだろ」
「いいのよ、こっちの話なんだから。 ね? 亮?」
「・・・・・・まぁ、そういうことにして置こうかな」
「ばふっ! ばふっ!」
父さん、頑張れ・・・・・・。
傍らで鳴くジョリーの背を優しく撫でながら、亮は心の中で涙しつつ父にでっかいエールを贈らず
にはいられなかった。
END
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いつの時代でも、父親というのは寂しいものです。
それにしても何処までお見通しなんでしょうね、母。(笑)