心から君を愛す

                                          昔話『かさじぞう』より















 それは、初めての甘い痛みだった。



 雪深い山間の小さな村。

 村の入口から暫く歩いた道の脇に、地蔵はひっそりと立っていた。 並んだ六体の頭には昨夜まで降っていた雪が丸く積り、朝の

陽射しを受けてキラキラと輝いている。

 それぞれの足元には捧げられた供物が置かれていた。 けれど、周囲に人影はない。 いや、人影どころか、見渡す限りの視界に

は民家さえも見えはしない。 広がるのは、ただただ広い野原と、その先にそびえ立つ高い山ばかり。 村を行き来する人々がそこで

足を止めることも滅多にない。

 ただ一人を除いては。










 今日も、また会えた。



 深い雪の為に、人の往来がいつも以上に少ない冬の時期。

 朝の寒さに白い息を吐き、積もった雪の上に新しい足跡をつけながら彼の人がやって来る。

 サク、と足音をさせて、人々からほとんど見向きもされない地蔵の前で立ち止まったのは、まだ年若い村の青年だった。 身なりか

ら生業を窺い知ることはできないが、とても信心深い人物であるのは間違いない。 何故なら彼の両手には、明らかに供物と思われ

る六つの品物が収められていたから。

 着物に上着を羽織っただけの彼は手袋もはめず、手がかじかむのも構わずに供物を大事そうに抱えたまま暫し地蔵達を凝視め、

やがてそれぞれに一つずつ品物を供え始める。 並んだ順に歩き進め四体目へ供え終わり五体目の前に来た時、彼は先程と同じよ

うに眼前の地蔵をじっと凝視めた。

 しかし、何かを願っているような雰囲気ではない。

 時間にすれば僅か、何か思うところがあるようにも見える佇まいの彼だったが、すぐに思い出したように手を動かし始めた。 青年

は全てを供え終えると静かに両手を合わせて祈りを捧げ、また元来た道をサクサクと音を立てながら帰って行く。

 そうして男の姿が何処にも見えなくなった時、端から二番目の地蔵がほわんとした黄色い光を放ち始めた。 その光は徐々に大き

さを増し、人の背丈と同じくらいの高さになったかと思うと次第にうっすらと人影を浮かび上がらせ、とうとう少女の姿を形造った。

 肩口まで伸ばされた髪は桃の花色を思わせ、瞳は濃い目の桜色。 それはまるで、雪に覆われた里に訪れる早春のようである。

 だが、彼女の華奢な身体を覆う白い着物は清楚であると言えば聞こえはいいが、およそ若い娘が好んで身に纏うものではない。

 その一種異様な雰囲気が、娘が異形であると如実に顕しているように見えた。


 今日も、来てくれた。


 少女は若者の去って行った方角に視線を送り、胸に抱えた切なさと共にいつまでも凝視め続ける。

 初めての出逢いは数年前、やはり雪の降る寒い季節だった。 今でも鮮明に思い出せると、少女は長い睫毛を震わせ、そっと瞳を

閉じた。

 その日も今日のように雪が積もる晴れた寒い朝で、やはりサクサクと足音を立ててやって来た。 長身で、見目麗しい青年。 茶色

がかった髪が陽射しに反射して、まるで雪と同じようにキラキラと輝いており、かつてないほど鼓動が跳ね上がったのを憶えている。

 もちろん、それは今も同じ。

『里緒・・・・・・今夜、行くの?』

 里緒と呼ばれた少女は、響く声にはっとし瞳を開けた。

 けれど、そこに佇むのは彼女ただ一人。 里緒の視線がゆっくり下方へと向かう。

 声は、並び立つ地蔵から響いていた。

『あなたの気持ちも解る・・・・・・けれど、私達は・・・・・・』

「・・・・・・心配させてごめんなさい・・・・・・でも、お願いだから・・・・・・」

『・・・・・・』

 心を埋め尽くす想いは痛みを訴える。 それでも、どうしても手放すことはできなかった。 決して報われないのだと解っていても。









 初めて出逢った日から、彼は十日に一度くらいの割合でここを訪れるようになった。 その度に何かしらの品物を供えてくれて、随

分と信心深い人なのだと思うと同時に心配にもなった。 置かれていく品物はさまざまだったが、時折その中に金子が混じっていた

からである。 それも、無視できないほどの大金が。

 普通に考えれば、それだけ生活に余裕があるからこその額面なのだろう。 しかし、彼はどう見ても長年働いて蓄えたという見目で

はない。 そんな年若い青年が何故これほどの大金を、しかも自分の為ではなく信仰に対して躊躇なく。 だが、だからと言って人の

生活を詮索するわけにもいかない。

 そこで彼女は受け取ったものへのお返しをすることにした。 祈りを聞き捧げられる側としての思考ではないし周囲からも猛反対さ

れたが、何もせずにはいられなかった。 そう思った日から、頻度こそ少ないものの彼女は度々青年の家を深夜人目につかぬよう訪

れては軒先にいろいろな物を届けていった。 ある時は米を、ある時は野菜や反物を。

 当然だが金に困っている様子ではない為、そんなものを送られても逆に有難迷惑だと思われるかも知れないが、そこは気持ちの

問題である。 初めて見た男の家は大きすぎず小さすぎず、極普通の構えであった。 だからこそ疑問はますます深まったが、考えて

も詮無いことと長居をせぬよう用件だけを済ませていく。

 それを何度か続けた頃だった。 突然、青年との遭遇率が急激に高くなったのである。 以前から日課でしたと言わんばかりの体で

彼が毎日供物を持って訪れるようになり、何事があったのかとこちらが狼狽える始末だ。

 けれど穏やかな表情で真剣に手を合わせ、青年は言った。

「・・・・・・何処のどなたなのかは存じませんが、時折、私の家に沢山の品物を届けて下さる方が居るのです。 是非お礼を申し上げ

たいと思うのですが、一度も姿を見せて下さらないところをみると、きっとそれをすれば無粋になってしまうのでしょう。 ですからどう

か、その方にお伝え下さい。 有難う、心から感謝していますと」

 微笑んだ青年は、それからいつものように六体の地蔵へと供物を捧げて帰路につく。 彼を見送った里緒の瞳から、ぽろりと大きな

涙が転がり落ちた。



 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう。



 少女は、恋に堕ちた。 そして絶望する。

 解っていた。 人ならざる自分の想いは決して届かぬことを。 だからこそ、ずっと己の心を誤魔化し続けてきた。 それなのに。

 幾夜も幾夜も泣き続け、それでも涙は枯れ果てない。

 そうしてついに、心を決めた。

 あと一度だけ。

 それでもう、最後にしよう。 これ以上の未練を持てば、きっと彼にとって障りとなってしまう。 自分は、紙一重の存在なのだ。

 そう決めた、年の瀬のある日。

 その日は朝からどんよりとした曇り空で、昼を過ぎた頃から雪が降り始め風が強く吹き出した。 夜は吹雪になるだろうと村人達が

家路を急ぐ夕刻、朝に続いていつもの青年が姿を見せた。

 一日に二度も来るのは珍しいと嬉しさを隠しきれない一方、逢えれば恋心を抑え込めなくなりそうになってしまうと葛藤する里緒の

前に立つ青年の手には六つの編笠。 急いでやってきたらしい彼は僅かに息を乱し、そうして手にした笠をそれぞれ地蔵の頭にかぶ

せ紐で結わえていった。

「今夜は吹雪になりそうです。 私にはこんなことくらいしか出来ませんが、どうか貰ってやって下さい」

 そう言って微笑んだ若者は笠を全てかぶせ終え、やはり五体目の前で足を止め腰を落としたかと思うと、徐に地蔵の頬を優しく撫

でたのだ。 これには流石に里緒も驚いた。

 それは、ほんの短い間だったが、それでも青年からの優しい感情が伝わるには充分な触れ合いであった。

 何を言うでもなく、ひとしきり地蔵を凝視めた彼は間もなく何時も通り手を合わせて帰って行く。



 あぁ、あたしは幸せ者です。










 吹雪の中に在りながら雪や風の驚異から身を守れ、若者がくれた編笠は大いに役立った。 あの時、里緒は触れた指先から温も

りも同時に受け取ったと思えた。

 けれど、その優しさは里緒自身に向けられたものではない。 それでも、心は溢れるほどに満たされていた。

 ただ、それでいい。

 少女の心は今、とても穏やかで静かだった。

「今夜で、最後にするから。 彼にはもう近づかない」

『・・・・・・解ったわ。 くれぐれも気をつけてね』

「はい」

 仲間の声に、里緒は晴れやかに微笑んだ。

 今日は大晦日。

 青年の為に、里緒は正月用の様々な品を用意した。 これまでになく豪華な品揃えも、これで最後だと思えば少しばかり色褪せて

見える気がしたが、そんな気持ちは払拭しなければと数度かぶりを振った。

 里緒は願う。

 優しさを体現したような、自分達を心に留め気遣ってくれた彼が、どうか良い年を迎えられますように。

 そして、幸せが訪れますように。

 そう、祈りを込めて。









 毎回そうしているように、今宵も深夜近くに青年の家を訪れた。 だが、今日は何やら様子が違っている。 何時もならこの時刻にな

ると村には静寂が広がり人気もなくなるのだが、目に入ってくるそこかしこの家々の多くにはまだ明かりが灯っていた。 きっとそれぞ

れが年越しを祝うべく酒や食事に舌鼓を打っているのだろう。 もしやと思ったが、案の定、青年の家からも煌々と明かりが漏れてい

る。 品物は、ただ軒先に置けばいい。 しかし、これではその僅かな時間に誰かに見られないとも限らない。

 どうしたものかと垣根の影で里緒が思案に暮れていると突然カラリと障子の開く音がし、見れば家の中から一人の男が出てくると

ころだった。

「それじゃあ、涼さん!また来年も宜しくな!」

「ああ。 足元に気をつけて。 良い年を」

 したたか酔っているのか、庭先に出てきた男はふらふらと危なっかしい足取りで、後ろから追いかけてきた声にひらひらと手を振り

ながら帰っていく。

 見送ろうと奥から出てきたのは、あの青年。

多分友人なのだろう男を心配気に、けれど何処か慈愛に満ちた瞳でその姿を追っていた。 やれやれという胸中を表情に出し、彼は

にこやかに微笑んでいる。



 涼、さんて・・・・・・言うんだ・・・・・・。



 途端に、胸が高鳴る。

 ここにきて、里緒は初めて青年の名を知った。 姿を見られてはいけないと今までずっと真夜中近くの訪問だった為、彼の交友を垣

間見る機会もなかったのだからそれは当然なのだが、名前を知るとそれだけで嬉しさが込み上げてくるから何とも不思議なものであ

る。

 だがそれが、彼女に一瞬の隙をもたらした。

「・・・・・・こんな時間に、どちら様?」

 気がつけば足元に自分以外の影が落ち、声のした方へはっと振り向くと、そこには焦がれて止まない優しい笑顔があった。

「っ・・・・・・!!」

 あまりの動揺に声も出せない。

 里緒の両手に抱えられていた品々が次から次へと地面へ吸い込まれドサリと音を立てていく。

「・・・・・・これは・・・・・・」

 何処までも優しい涼は、夜半に突然現れ震えて立ち尽くす不審な女を見咎めもしない。 それどころか、取り落とした品を拾ってくれ

ようとまでする。 しかし、そこで漸く彼が困惑した様子を見せた。

「もしかして、君は・・・・・・」

 戸惑いを隠さない声音に、金縛りが解けたように里緒の身体がぎくりと軋む。



 気付かれた ―――― !!



 少女の顔から、ざっと血の気が引いた。

「っ・・・・・・ごめんなさいっ!!」

「あっ・・・・・・待って!」

 早くこの場を立ち去らなければ。

 それだけを考え素早く踵を返したが、けれどそれは叶わなかった。里緒より僅かに早かった涼の大きな手が彼女の腕を掴んで引

き寄せたのだ。 勢いのままに彼の胸へと飛び込んでしまった少女を、若者は難なく受け止めその腕に抱き込んだ。

 背に回された腕の力は思いがけず強く、恋い慕う男性との密着というあまりの状況に鼓動はどくどくと早鐘を打ち続け、頭の中は

真っ白になる事態。

 何が起きているのか解らない。

「は・・・・・・なして、下さい・・・・・・っ!」

 混乱する頭で、それでも何とか震える声を絞り出したが願いは聞き入れられず、それどころか抱擁はますます強まっていく。

「・・・・・・何時も、有難う」

「っ・・・・・・!」

 抱き締められたままの里緒の身体が、目に見えて大きく震えた。 それにあえて気付かぬ素振りで、涼は静かに言葉を紡ぐ。

「君の心遣いが、とても嬉しかった・・・・・・」

 頬が、熱い。

「な・・・・・・にを、言って・・・・・・あたしは・・・ただの、通りすがりで・・・・・・」

 胸が、苦しい。

「・・・・・・こんな夜更けに、若い娘が、こんな格好で?」

「!!」

 涼が、微かに笑った。

 苦し紛れの嘘は一蹴され、ぐうの音も出ない里緒が解放される気配は全くない。

「ずっと、逢いたかった。 そして、お礼が言いたかった。 それから・・・・・・君に想いを伝えたかった・・・・・・」

 刹那、男の腕の中で壊れそうな心臓と闘う里緒の耳に囁かれた声に、彼女は信じられないという思いを宿し瞳を瞠った。

 この人は、今、何と言った?

 そんな、まさか。

 ありえない。

 広い胸に埋めていた顔を恐る恐る上げると、吸い込まれそうに綺麗な紫の虹彩とぶつかった。

 瞳を、逸らせない。

 整った顔立ちが、意味在り気に微笑む。

「もう、ずっと前から知っていたよ。 小さな、可愛いお地蔵さん?」

 瞬間、張り詰めていた糸がふつりと切れ、里緒は意識を失った。












「ん・・・・・・」

 何だかふかふかと心地良い。

 身体に感じる気持ち良さにふと瞳を醒ますと、周囲は全く見覚えのない景色で俄かには自分の置かれた状況が把握できない。

「ここは・・・・・・」

 一体、何処だろう。

「瞳が醒めた?」

 声のする方へ瞳を向けると、そこには件の彼がいた。

「っ・・・・・・!」

 瞬間的に全てを把握した里緒は咄嗟に身体を起こそうとしたが、如何せん急激に動いたせいでくらりと目眩に襲われてしまう。

「あぁ、急に起きたら駄目だ。 身体はゆっくり動かさないと」

 優しく諭すように言って、涼は里緒の身体を支え起こす。

「有難う、ございます・・・・・・」

 どういたしましてと傍らに座り嬉しそうに微笑む男に、とうとう里緒は観念して小さく溜息を吐いた。

 不覚にも気絶してしまった自分は、どうやら彼の家の中へと運ばれたらしい。 見れば部屋の中はとても綺麗に片付けられていて、

掃除もきちんと行き届いている。 誰か、世話をしてくれる人がいるのだろうか。

 そう考えて、自分は本当に涼のことを何も知らないのだと改めて自覚した。 家族構成も、生業も、何もかも。 それなのに、恋心ば

かり募らせて。 もしかしたら、妻子がいるかも知れないのに。

 自分が情けなくて滑稽で、里緒はぽろりと大粒の涙を一つ零した。

「どうした?どこか痛む?」

 突然泣き出した面倒な女を、それでも心からというように心配してくれる優しい人。

「・・・・・・いいえ、大丈夫です。 有難うございます」

「そう・・・・・・それならいいけど」

 安心させるように笑うと、彼はほっとした様子で笑みを返してくれた。

 ・・・・・・あぁ。

 やはり、自分はここにいてはいけない。 彼の領域に、踏み込んではいけない。 その幸せを、壊してはならない。

「そうだ、今更だけど・・・・・・名前を訊いてもいいかな」

「あたしは、里緒です。 あの・・・・・・本当に、お世話になりました。 これ以上ご迷惑にならぬよう、すぐにお暇いたします」

「どうして?」

「どうして、って・・・・・・」

 何故そんなことを言うのか、むしろこちらが訊きたい。

 深夜に突然現れて、軒先で家の中の様子を窺う。 いくら田舎の小さな村とは言え、いや、例え何処であったとしても、それだけで

自分は立派な不審人物だ。 それなのに、彼の言い様はまるで相手を引き止めんとしているかのように聞こえる。

 何よりも、先の言葉が聞き間違いでないとすれば、青年は里緒の正体に気付いていることになる。

 訊ねられた意図が解らず困惑していると、それまで一定の距離を保っていた彼が徐にこちらへと近付き、あまつさえにじり寄る勢

いで間合いを詰められた。

「っ・・・・・・!」

 近い。

 近すぎる。

 見目の良い男性の至近距離は、心臓に悪い。

「・・・・・・どうして、逃げるのかな」

 そう思って詰められた分だけ離れようとすると、妙に真剣味を帯びた表情でまた訊ねられた。 何故だろう。 今までと変わらない優

しい笑顔のはずなのに、何故だろう、無性に怖い。

 近付かれた分だけ後退していく。 さんざん繰り返したその行動も、後ろに突き当たった壁のせいでとうとう終わりを告げた。 涼の

瞳の中には不安気な表情の里緒が写り込んでいる。 その彼の腕は今や少女の両脇を固め、完全に退路を断っていた。

 傍から窺えば、誰がどう見ても幼気な少女に今にも襲いかからんとする悪い男の図だが、当の本人である里緒は現状を把握する

のに必死すぎて、自分の置かれた立場にまで思い至れないのが涼の思惑通りであるなどとは悲しいかな微塵も気付けなかった。

「あ・・・の・・・・・・」

「里緒・・・・・・俺が前から君のことを知っていた理由を、訊きたいとは思わない?」

「え・・・・・・?」

 何処までも優しい笑みを湛える涼の大きな掌が、少女のほんのりと朱を刷いたまろい頬をするりと撫でる。

「んっ・・・・・・!」

 思わずびくりと首を竦ませた里緒を愛し気に凝視める視線がやけに色気を放っており、そんなものにはこれまでこれっぽっちも免

疫のない少女は戸惑うばかりで、何とも言えない居心地の悪さを味わっていた。 既に泣きたい気持ちである。

 そんな彼女の思いなどお構いなしに、涼はここぞとばかりに容赦なく震えるうさぎを追い詰めにかかった。

「・・・・・・最初は、正直それほど気にしてはいなかったんだ。 知り合いからお裾分けと称して度々いろんな物が届けられたりしてい

たから、これもそんな品の類だろうと。 けれど、二度三度と続く内に気付いたんだ。 君が届けてくれる品々は、どれもこれも管理の

行き届いた素晴らしい品ばかりだった」

 節ばった手が少女の頬から首筋へと辿る跡を追って、涼はその甘い果実に熱い舌を這わせていく。

「っひう・・・・・・っ!」

 その身に受ける初めての愛撫に翻弄され、華奢な腕はまるで自分を苛む張本人へと助けを求めるようにその指先を伸ばしてしま

う。 それを逃すまいとするようにすかさず涼は再び少女を抱き込み引き寄せ、その腕の中へと閉じ込めることに成功した。

 彼は続けた。

「もちろん、それは金額の問題じゃない。 如何に心を配り、思いを込めているか。 それが解った時、知りたいと思った。 果たしてどん

な人物がここまでのものを用意しているのだろうと」

 とうとう、焦がれた舌はふっくらと艶やかな里緒の唇を捉え、その腔内へと自らの想いを挿し入れた。

「んっ・・・・・・んんっっ・・・・・・っう」

 まるで生き物のように蠢く舌は目的のものへ辿り着くと待ってましたと言わんばかりに絡みつき、絡め取り、その甘い粘膜を心ゆく

まで味わい尽くす。 舐め上げ、吸い上げる内に溢れ出した銀の雫もそのままに男は少女を貪ってゆく。

「あふっ・・・・・・あぁ・・・・・・っ」

 優しく、けれど執拗に深くまで舐め回され続け、やがてその甘さを教え込まれた里緒の唇は艶やかな吐息を漏らし始めた。

 涼の背へと回した細い腕は快楽の入口を知った悦びを無意識に伝えようとし、彼の皮膚へと何度も指先を滑らせ淫らに食い込ま

せた。 それが男の欲を更に煽っていくのだと、初心な少女はまだ気付かない。

 絡ませ続けたお互いの舌を名残惜しげに離すと、キラキラとした銀の糸がつうっと二人を繋ぐ。

 「はっあぁ・・・・・・あ・・・・・・」

 濡れた唇を切なく震わせ、桜色の潤んだ瞳が男を見上げる。

 絡ませた視線の先に、お互いの姿を映し出す。

「待ち続けた俺の前に現れたのは、想像もしていなかった可愛らしい少女だった。 思わず後を追った俺の目に飛び込んできたの

は、もっと驚かされる事実だった。 その日から、俺は毎日欠かさず君に逢いに行った。 里緒、君を・・・・・・いや・・・・・・お前を、俺の

妻にする為に」

「っ・・・・・・」

 耳を疑う涼の告白に、里緒は思わず言葉を失った。

 何時からか、彼と毎日出逢うようになった。 そこに、まさかそんな理由が隠されていただなんて誰が想像できただろう。

 けれど。

「なん、で?・・・・・・だって、あたしは・・・・・・」

 そう。 自分は人ではない。 ましてや、この世のものでもない。 どんなに想いを募らせても報われないと最初から解っていた。

 それでも諦められず、泣いて泣いて泣き続けた。 それなのに。 それなのに目の前のこの人は、いとも容易く自分を妻に迎えると

言ってのける。

「毎日、祈った。 毎日、願った。 来る日も、来る日も。 お前を妻にと、懇願した。 何を犠牲にしてでも、例え地獄に落ちてでも、それ

でも、お前が欲しかった・・・・・・好きだ、里緒・・・・・・好きだ、好きだ・・・・・・っ!」

 狂おしいほどの情熱に骨も折れよと抱き締められ、里緒の瞳が歓喜の涙を零す。

「涼、さん・・・・・・あたしも、好き・・・・・・誰よりも好きっ・・・・・・!」

「っ・・・・・・里緒っ・・・・・・!」

 除夜の鐘が夜のしじまへと厳かに響き渡る頃、愛し合う二人は初めての夜を迎え、そうして心も身体も結ばれた。













 火照った身体が徐々に静まっていく。

 愛する人と結ばれた幸せに浸りながら、夫婦はお互いを優しく抱き締め合う。

「涼さん・・・・・・」

「ん?」

 愛らしく擦り寄る妻を満足気に引き寄せて、しかし現実は何処までも残酷なのだと彼は無情にも知ることになる。

「あたし・・・・・・今日のこと、絶対忘れない。 ほんのひと時でもあなたの妻になれたこと、絶対、忘れない」

「・・・・・・何を言ってる?」

「・・・・・・」

 答えない妻に、夫が焦りを募らせた様子で詰め寄った。

 先ほどまで感じていた怖いくらいの幸せが、まるで音を立ててガラガラと崩れていく。

 涼の表情は、そんな心中を包み隠さず映し出していた。

「里緒、どういう意味だ?」

 囁く声音が剣を含む。

 彼女は夫の優しい腕の中で静かに悲しみの涙を流す。

「里緒・・・・・・?」

 妻は小さな声で、けれどはっきりと言った。

「あなたは、あたしを妻にと望み、こうしてその夢を叶えてくれた。 それは、あたしにとって何物にも替え難い幸せだわ。 でも、やは

り夢は夢。 終わりは確実にやってくるの」

 悲しみの色を浮かべた桜色が潤み、愛おしい人を真っ直ぐに凝視める。 夫の瞳は徐々に驚愕に見開かれ、妻の言葉が間違いな

く真実であると悟ったのだと、里緒に向かい、それは雄弁に伝えてくる。

 だが。

 納得できるかどうかは、話が別だ。

 そんな静かな怒りを無理矢理抑え込むかのように、涼の表情がそれまでになく険しく歪んだ。

「・・・・・・お前が、人ならざるものだからか」

 夫が与えてくれる溢れんばかりの愛情を確かに感じて、里緒は困ったように微笑む。 それは、妻からの無言の肯定。

 彼の前ではずっと笑顔でいたいと思うのに。

 水滴はそんな彼女を裏切りはらはらと零れ落ちる。

 ごめんなさい。

 本当に、ごめんなさい。

 自分は何と無力で、浅はかなのだろう。 愛する人を、よりにもよって己自身が傷付けてしまった。

 こんな感情など持たなければ。

 逢いたいなどと願わなければ。

 きっと彼は今も穏やかに静かな心でいられたはずだ。

 波立たせてしまったのは愚かな自分。

 後悔しても、もう遅い。

 その時、自責の念に駆られ消えてしまいたいと泣く里緒の耳にとんでもない言葉が聞こえてきた。

「解った・・・・・・俺が話をつけよう」

「っ・・・・・・涼さん!?」

 着替えて出掛けると、今にも爆発しそうな怒りで声を震わせ立ち上がる夫を、妻は慌てて制止した。

 そんなことをすればどうなるか火を見るより明らかだ。 神に楯突こうなどと下手をしたら彼の命が危うい。

 最悪の事態を想像し、里緒は青褪める。

「駄目! そんなの、あなたにさせられない!」

「里緒!」

 それでも振り切ろうとする愛しい人を絶対に死なせるわけにはいかないと強く抱き締めれば、激昂した涼の感情がほんの少しだけ

和らいだ気がした。

「あたしは・・・・・・あなたに生きて欲しい・・・・・・あなたを、あたしの為に死なせたくない・・・・・・」

 好きだから。 愛しているから。 願うのは、ただひたすらにあなたの幸せ。

「里緒・・・・・・」

 妻の心からの訴えが響いたのか、少しだけ眉尻を下げて夫は必死にしがみつく愛らしい存在をきつく抱き締め返した。

「里緒・・・・・・お前の気持ちは良く解った・・・・・・でも、俺もお前に出逢って思ったんだ。 お前を得られるのなら、何も惜しくはない

と。 それは今も、いや、以前にも増して強くなっている、俺の願いであり、祈りだ」

「涼さん・・・・・・」

 額に、目元に、涼からの優しい口付けが降り注ぐ。 何度も、何度も。

「解っている。 相手は、まがりなりにも神と呼ばれ崇め奉られるものだ。 決して無事で済むとは思っていない。 それでも、例え何が

あったとしても、俺は絶対に後悔しない。 お前の存在が俺の強さだよ」

 ・・・・・・あぁ、この人は何処まで真っ直ぐなのだろう。 そして、何て一途なのだろう。

 何もせずに、何かをしようとすらせずに諦めてしまった自分とは天と地ほども違う。

 きっとずっと、敵わない。

 夫の強い意思を前に、妻も決断した。

「・・・・・・それなら、あたしも一緒に行く」

「里緒、それは ―――― 」

「あたしは、あなたの妻だもの。 何処へだって、ついて行く」

 だから絶対、浮気なんか出来ないんだから!と微かに頬を染めて言い募る里緒に、そんな心配は小さな欠片ほども存在しないと、

妻の唇を甘く塞ぎながら夫が笑った。




 年が明けた、今は元日の未明。

 夜が明けるまでにはまだ少し間がある時刻に、寄り添う夫婦は雪道を村の入口へと向かいサクサクと音を立てて歩いて行く。

 周囲の喧騒は雪に吸い込まれ、今は二人の足音だけがその全てであった。

「年が明けて新しい神様を迎えようって日に神と対峙しに行くなんて、まるで笑い話だな」

「ふふっ、そうかもね」

 二人の声に悲愴の色は感じられない。

 これが明るい日中であったなら、夫婦が仲睦まじく歩く様子は、これから一緒に散歩ですとでも言いたげな様子に見えるだろう。

 そんな二人の歩調が、やがて少しだけ緩やかになる。 道の先に、彼らの目指す場所が見えてきた為だ。

「・・・・・・いいか、里緒」

「はい、涼さん」

 お互いの想いを確かめ合い、夫婦は強い足取りで道を急いだ。

 涼が何時もそうしていたように、二人はサクと足音を立てて地蔵達の前に立つ。

 夫婦はどちらともなく、まるで示し合わせたかのように共に端から二番目の地蔵をじっと凝視めた。

 本来、里緒が守り継ぐべき存在。 主不在のまま、それでもそれは静かに何事もなかったかのように、ただ佇んでいる。

 暫くそうして立ち尽くしていると突然、里緒を除く五体の地蔵達が一斉に淡く黄色い光を放ち始めた。

『漸く来たのね・・・・・・』

『待ちくたびれたわ、里緒・・・・・・』

 雪の中、ぼんやりと、けれど確かに声が響く。 涼にとっては、初めて聞く神の声。 耳を通してと言うより、直接脳内に響くと言う方

が多分しっくりくるだろう。 そして里緒にとって、これはきっと最後に聞くだろう音となる。

「皆 ―――― 」

『その男を連れているということは・・・・・・覚悟を決めたと見做していいのかしら?』

「・・・・・・!」

 里緒の言葉を遮るように、地蔵は彼女の意思を確かめにかかる。

「それは、」

「その前に・・・・・・私もあなた方に一つ、お訊ねしたい」

『・・・・・・何かしら』

 妻を守るようにして彼女をその背に遠ざけ声を上げる涼に、返された声音がそれまでよりも大分低く感じられたのはきっと気のせい

ではない。 ともすれば怒りを孕んでいるようでもある。

 だが、それは涼とて同じ。 例え逆恨みと一蹴されようとも、里緒を護る為なら端から一歩も引くつもりはない。 そんな想いがありあ

りと見て取れる涼の表情は、里緒がかつて見た憶えがないほど冷ややかで思わずぞくりとしてしまう。

「私は、ずっと以前から彼女を妻にとあなた方に願い出てきた。 その想いが叶えられ、私は漸く彼女を妻として娶った。 その彼女を

私から引き離す者あらば闘うことさえ辞さない覚悟を常に持っている。 そこで、あなた方はどうなのか、その覚悟のほどをお訊きした

い。 返答如何によっては、こちらもそれなりの対応をさせていただく」

『・・・・・・神と、一戦交えるとでも言いたいの?』

「・・・・・・必要とあらば」

 途端、周囲の空気がざわりと変化し、闇が次第に濃くなっていった。

 それを正しく感じとったのだろう涼の眉間に、これまでになく皺が深く刻まれる。

 まさに一触即発。

 交渉は決裂かと思われたその時、里緒の隣り、一番端に位置する地蔵の光が大人の人間ほどに一際大きく輝き出し、やがて中

から女性の人影が現れ出てきた。

 目元のきつい気の強そうな印象を与えるその人は里緒と同じく真っ白な装束を身に付けているが、年齢的には多分彼女よりも大

分年上だろうと思われる姿をしている。

「年神様!」

「・・・・・・年・・・・・・神?」

 突然、年神と呼ばれた女性に向かって嬉しそうに駆け寄る妻の一言に、涼は面食らった様子で二人を凝視めた。

 すると、ゆっくりと、威圧感に満ちた視線が涼を捉える。

「大分、驚かせてしまったみたいね。 彼女の言った通り、私が今年の年神。 一年間、宜しくね」

「それは・・・・・・こちらこそ」

 神様と言うには若干不遜な、いや、そもそも神だからこれでいいのか、そんな良く解らない態度の年神は、それはそれは不敵な笑

みを浮かべて涼に向かって声を掛けた。 なので彼からの返答が多少おざなりになってしまったとしても、そこは許して欲しい部分で

ある。 尤も、当の本人は全く気にしていないようだが。

「ところで、早速本題に入りたいのだけど、いいかしら?」

「・・・・・・ええ、何時でもどうぞ」

 言われて外交辞令的に微笑んだ涼であったが、腰に手を当て早くしろと言わんばかりに背を仰け反らせる彼女に何やら苛立ちを

感じても、そこは一応神様なのだから、それに相手に話し合う余地があるのならこちらも冷静にと感情を表に出すのは止めたらしい

夫の胸中が手に取るように解ってしまい、里緒ははらはらしながら二人の動向を静かに見守ることにした。

 神様、どうか穏便に、そして無事に終わりますように。

 年神を前にし、更には若年とは言え自分もその一端を担う者であるというのに、里緒は何故か天に向かって両手を合わせる。

「というか、どうもあなた達には誤解があるようだから、そこからだわね」

「誤解?・・・・・・どういうことですか」

 やれやれといった風に両手を広げ、尚且つ半笑いで顔を左右に振る動作がいちいち苛つくが、ここは我慢とまたもや青筋を引っ込

めたらしい夫の胃の状態が大変心配な里緒である。

「いい?まず大前提として、私達のような地元に根付く地域密着型の土地神は、他の神を罰するような権限は全く持ち合わせてい

ないの」

「え?」

「そうなんですか!?」

 年神の言葉には涼のみならず里緒も驚き、見守ると決めた傍からついつい食いついてしまう。

 うんうんと頷く神は更に続けた。

「それからこれは、もっと大前提。 そもそも、人と神が婚姻を結んではいけないなんて決まりは何処にもありません」

「えっ!?」

「そ・・・・・・そうなんですかっ!!??」

 あまりにも呆気なく問題が解決した瞬間だった。

 俄かには信じられず本当なのかと困惑しきりの涼とは対照的に、夫と顔を見合わせた里緒の表情が喜色を露にする。

 そこで年神が放った次の言葉が二人にとっての決定打となった。

「考えても見なさい。 古来から、人と神の間でどれだけ子供が産まれたと思ってるの。 あなた達の感情は極自然なものよ。 もっと

自信と誇りを持ちなさい」

 ・・・・・・言われてみれば確かにそうだ。

 神話、伝承、伝記、はたまたどこまで信用できるか解らない口伝や噂話まで、人は神とこれでもかというほど交わってきている。

 ただ、それらはあまりにも別世界すぎて、自分達がそれに当てはまるなどとは考えもせず、しかも重ね合わせもしなかったのは不

覚であったと愕然とした涼に、一言、無様ねと言い放った年神に殺意を前面に押し出す夫を宥めた妻の苦労が絶えなかったことは

言うまでもない。

「これで後は里緒の寿命の問題だけね。 あなたは、どうしたい? 神として生きる?それとも、人として生きる?」

 まぁ、答えなんて聞かなくても解りきってるけどと、彼女はやはり尊大な態度でフフンと笑う。 何の蟠りも躊躇もなく自分の背中を

押してくれる懐の大きさに感謝と畏怖の念を込めて、里緒は彼女を真っ直ぐ凝視める。

 そんなの、とうの昔に決まっている。

「あたしは、人として寿命を全うします。 彼と共に」

 隣に並ぶ涼を見上げれば、彼が嬉しそうに笑ってくれた。 大好きな笑顔。 ずっと、護っていきたい。

 ほんの少しだけ瞳を伏せた年神が、決まりねと破顔した。

 仲間と袂を分かつのはやっぱり寂しい。 でも、自分は選んでしまったから。 彼と歩む、この道を。

「では里緒、こちらへ」

 人へと生まれ変わる最後の仕上げ。 導いてくれるのは、優しい年神。

「その頭上に手を翳して」

「はい」

 ここで、彼と出逢った。

 そして、ここで過去に別れを告げる。

 愛する人が何時も特別な想いを込めて祈りを捧げてくれた石仏。 その頭上にそっと手を翳すと、常とは違う眩い青い光が石の中

から放射線状に真っ直ぐ漏れ出す。 次の瞬間、ゴトリゴトリと音を立てて割れた石達が地面へと散らばった。

「・・・・・・あなたの役目はこれで終わり。 これからは、また違う神があなたの代わりにここを護るわ。 村の平和と、人々の暮らしを」

「はい・・・・・・長い間、お世話になりました」

「幸せにね」

「はいっ!」

 この地で、涼と幸せになる。






 割れた石の欠片は年神が供養してくれることになった為それらを拾い集めていると、あぁ、そうそうと、今思い出したという素振りで

彼女は里緒に声を掛けた。

「あなたに報告があるの」

「?・・・・・・何ですか?」

「あなたの内で、子種が見事に実を結んだわよ」

「え?」

 良かったわねとにこやかに微笑まれたが、一瞬何のことやら理解できなかった。

 ・・・・・・子種が、実を結んだ。

 子種が。

「・・・・・・んん?」



 子種が・・・・・・実を結んだ!!!???



「なっ・・・・・・そっ・・・・・・りょっ・・・・・・!」

「なそりょ?」

 何で、そんなことあなたが知って、涼さんは何処っ!!??

 あまりに混乱して思わず夫の姿を探せば、彼は放心したまま拾ったはずの石をボトボトと全て取り落としていた。

「涼さんっ!あのっ!」

「・・・・・・子供が・・・・・・出来た?」

 里緒の声が聞こえていないのか、呆然と呟いた彼はやたらとぎこちない動きで年神を見た。 間違いないと太鼓判を押すようにした

り顔で大きく頷いた年神。 彼女の表情に確信を得たらしい彼は、今度こそ妻へと向き直る。

「里緒・・・・・・」

「涼さん・・・・・・」

「やっ・・・・・・た!でかしたっ!里緒っ!!!」

 里緒を勢い良く抱き上げてくるくると回りだした彼の顔は本当に本当に嬉しそうで。

 新しい生命を祝福してくれて、こちらこそ心から有難う。

 思いっきり笑いたいのに、でもどうしてか、里緒の涙は止まらない。











「ところで、どうしてあなたがそんなことまで知ってるんですか」

 あまりにも泣き止まない里緒をずっと抱き締めたまま、けれど、その内素朴な疑問が湧いたらしく涼は年神へと質問を投げ掛け

た。 そういえば、それは里緒も聞きたかったことだ。

 が。

「私を誰だと思ってるの。 神よ?」

 ・・・・・・一刀両断、さもありなん。

 当然と言えば当然な答えを返し、もっと敬いなさいと言わんばかりに高笑いする女性に対し、涼はただただ疲れた笑いを浮かべて

いた。

「あの、でも・・・・・・その・・・・・・ちょっと、早すぎる気がするんですけど・・・・・・」

 しかし彼女の説明の中で一つだけ腑に落ちず、今度は涙を拭いつつ里緒が問い掛けた。

 何しろ少女が男に愛されたのは、たかだか数時間前の話だ。

 そんな短い時間で、つまり生命の源同士が最終的な出逢いを果たしているとは到底思えない。

 その時の記憶をうっかり鮮明に思い出してしまって一気に顔が赤くなり思わずしどもどしている里緒を見て、年神は訳知り顔でニ

ヤリと笑う。

「あら、珍しいことじゃないわ。 何しろ子供が出来る確率は、破瓜の時が一番高いんだもの。 あなたの言うように、通常、人間の女

性なら結実までもっと時間がかかるけど、その時あなたはまだ人じゃなかったでしょ」

 ね?とにこやかな笑顔でさらっと言われ、それは女になった瞬間を知られたようで、非常に恥ずかしくて居た堪れない。

 涼の着物を鷲掴み、その胸元へと隠すように顔を埋める里緒は耳まで真っ赤だ。

「・・・・・・すみませんが年神様、あまり直接的な物言いは ―――― 」

 羞恥にふるふると身を震わせる妻に苦笑しつつも、緩む頬を抑えられないという表情の夫が助け舟を出したのだが。

「それにしても最初の一発で命中させちゃうなんて、とても強い生命力の持ち主ね、あなた。 あ、それとも我慢の限界が来て思わず

暴走させちゃった口かしら」

 涼に向かって最後に一つ、年神はとんでもない爆弾を投げ付けた。











 あんなに悩んだ時間を返せ。

 縁側に座り込み、ぼそりと呟いて落ち込んだ涼の背を撫でる里緒は、誰が見ても幸せを絵にしたような笑顔を綻ばせた。

 だって、もういいのだ。

 大好きな人と何の気兼ねなく堂々と夫婦なのだ。 手を繋いで歩くのも、凝視め合うのも、口づけを交わすのも。

 もう、誰にも遠慮はいらない。

 喜びを噛み締めて、里緒は先日の出来事を思い出す。

 結局あの後、年神様は言いたいことだけ言い残してさっさと帰ってしまった。 最大の疑問だった、禁じられていないのなら何故二

人の間を咎めるような態度だったのかという問いに対しては、反対されても想いを貫き通す覚悟があるのかを見定める為だと言わ

れ、終わってみればあっという間だったと、本当に、あれだけ悩んだ自分達は何だったのだと思わずにはいられない。

 何時の間にか自分の膝に頭を乗せて横になっている夫の柔らかな髪を優しく梳いていると、冬には珍しくぽかぽかと暖かい陽射し

の中、緩やかな風がサァッと一つ吹き抜けていく。

 本当に幸せだ。

 そう、幸せなのだが・・・・・・里緒にはまだもう一つだけ気掛かりな事柄が残っている。 答えを知るのが怖くてつい先延ばしにして

しまったが、いつまでもうやむやには出来ない。

 里緒は意を決して夫に訊ねた。

「・・・・・・ねぇ、涼さん・・・・・・」

「うん?」

「あたしは・・・・・・あなたの何番目の妻・・・・・・?」

「・・・・・・は?」

 言ってる意味がまるで解らないというようにぽかんとする夫の返事。 里緒は次第にうるりと涙ぐむ。

「り・・・・・・里緒!?」

 驚きに、微睡みから一瞬にして跳ね起きた涼に対し、一度言葉にしてしまえばもう止められない彼女の心の内が一気に吐き出さ

れていく。

「あたしの他に、世話を焼いてくれる女性がいるんでしょう? 隠さなくたっていいの! 裕福な男性は、何人もの妻を持つのが普通だ

もの・・・・・・言ってくれれば、あたし・・・・・・あたしだって、それなり、の・・・・・・心構え、を・・・・・・っ」

 そう、この時代、資産を持つ男性はその財力を誇示するように複数の妻を娶るのが当たり前だった。 その常識から言えば、涼に里

緒の他に妻がいたとしても何ら不思議ではない。 そう、頭では解っているのに。 心はそこまで簡単に割り切れるものではない。

 自分の言葉に自分で傷ついていれば世話がないと声を詰まらせ泣く里緒を、涼はますます動揺した様子で抱き寄せた。

「里緒・・・・・・里緒、ちゃんと話をしよう・・・・・・まず、お前の他に妻がいるなんて、どうしてそんな話になったんだ?」

 ひっくひっくと泣き続ける妻の華奢な背を、落ち着かせるようにゆっくりさすりながら優しく夫が問い掛ける。

 里緒は、視界を滲ませつつもぽつぽつと話始めた。

「だっ・・・・・・て・・・・・・お部屋は・・・隅々まで、綺麗に、磨き上げられてるし・・・・・・」

「うん?」

「散らかりようがないほど、物がきっちりと、完璧に片付けられてるし・・・・・・」

「・・・・・・うん」

「そんな女性が、いるのなら・・・・・・何も出来ない、あたしなんか・・・・・・出る幕ない、って・・・・・・思って・・・・・・っ」

 自ら連ねた現実に打ちのめされ、また里緒の瞳に涙が込み上げる。

 だが泣き濡れた妻の告白に、涼はと言えば先ほどまで狼狽えていたのが嘘のように何故か嬉し気な笑みを浮かべていた。

「何だ・・・・・・そんなことか」

「っ・・・・・・!」

 そんなことではない、自分にとっては何より重大なのだと反論しようとして、けれどその抗議は噛み付かれるような口付けに塞が

れ叶わなかった。

「うっんん・・・・・・んっ・・・ん」

 何度も角度を変え、深くまで挑まれ、器用な舌に全てを奪われる。 やがて満足したのか離れていった唇が、今度は妻が流した涙

の跡を辿り始めた。

「んっ・・・・・・」

 恥ずかしさと擽ったさに頬を染め身動ぐ里緒を、夫の腕はがっちりと捕まえて離さない。

「涼・・・・・・さ・・・・・・」

「・・・・・・俺はね、お前が思ってるほど優しい男ではないし、広量でもないよ」

 そう言いながらも、涼は妻の耳元で何処までも優しい声音で囁く。

「これまで心を動かされる女性は一人も居なかったし、例え向こうから近付いてきたとしても一切寄せ付けなかった。 興味もなかっ

た。 冷たくあしらうのも厭わなければ性的な欲望を抱くこともなかった」

 お前に出逢うまではと、熱い吐息が里緒の身をふるりと震わせる。

「お前の愛が得られるなら何を犠牲にしても構わない。 共に在れるなら地獄に堕ちても本望だ。 でも、俺から離れようとするなら容

赦はしない。 俺以外を見るのは許さないし、何をしてでも繋ぎ留める。 それが・・・・・・お前を傷付けるとしても」

 何処までも身勝手な男の言い分だ。 なのに、里緒の心は甘美な狂気に戦慄いた。

「あたし・・・・・・あなたを独り占めしていいの?」

「そうしてくれないと、俺が困る」

「ずっと、あたしだけの旦那様?」

「当たり前だ」

 嬉しくて、死んでしまいそう。

 そう返せば、これから幸せになろうというのにそれは却下だと笑われた。

「ちなみに俺は元々家事が好きでね。 炊事も洗濯も掃除も全部自分でこなしてる。 もちろん一人暮らしだから安心していい」

 嫁を迎える準備は万全だと宣言されるが、そこまで完璧な男性に果たして自分など必要なのだろうかと至極当然の意見を控えめ

に訴えると、徐に両手をがしりと握られ、お前が俺の為にしてくれること自体が重要なのだと前のめりで思いきり力説された。

 それがあまりにも必死な様子であった為、思わず里緒が気圧されるほどだ。

「疑問が全部解決できたなら何も問題はない。 一番近い吉日を選んで祝言を挙げよう」

「え?」

 そう言って嬉しそうに暦を見始めた涼の出した答えは一週間後。

「え?え??」

 それはいくら何でも早過ぎるのではと、まるで子供がはしゃぐように嬉々とした夫には申し訳ないがと小さな抵抗を試みたのだが。

「正式な夫婦になるんだ、早い方がいい。 お前がまた要らぬ心配事を抱え込む暇のないように。 あぁ、でも、その前に」

「え?え??え???」

 それはそれは爽やかな笑顔で断言した夫によってあれよと言う間に里緒の身体が縁側から奥の部屋へと吸い込まれていき、射し

込む陽光を遮らんと全ての障子がぴっちりと閉められた。

 その隔たりの向こう側で、まさか陽も高い内から男の純情を疑ったお仕置きと称してめくるめく愛の営みが繰り広げられていようと

は、よもや道行く人は誰も思わないだろう。

 甘い甘い妻の身体を激しく貪り、あられもない嬌声を散々上げさせている夫が、実は都での煩わしい生活に嫌気がさしてこの村へ

と移り住んだ、その世界ではちょっと有名な医師であると里緒が知るのは、もう少し先のことだった。