喧 嘩
きっかけは、いつもほんの些細なこと。
好み。 価値観。 性格。 etc。
少しずつ違うものを持っているから。
だから一緒に居たいのだと分かっているけれど。
でも、それが原因となっているのも、また事実で。
――― つまり。
恋愛って、奥が深くて厄介なシロモノ。
+ + + +
「・・・・・・またなの?」
「だ・・・・・・だって、エリーゼ様。 あいつが ――― 」
「あいつがじゃありません。 喧嘩は両成敗が基本。 どちらが悪いとか、そういう問題ではないのです」
分かった? フィオ。
持ち前の気の強さは見る影も無く、まるで萎れた花瓶の花のようにシュンとなっているフィオに向かい、
エリーゼは愛らしくにっこりと笑った。
ベルーナ王国。 カペラ離宮内、エリーゼ王女の居室。
大きめの窓が差し込む陽光を充分に取り入れ、周囲に置かれた年代物の調度品を明るく照らし出している。
とかく華美で贅沢な暮らしをしていると思われがちな王族にあって、しかしエリーゼの部屋は拍子抜けするほど
簡素だった。 だがそれらが貧相に見えるかといえば、そうでは無い。 設えられた一つ一つには職人技を駆使した
繊細な細工が施されており、極めて重厚な雰囲気を醸し出している。 派手さは無いものの、品良くすっきりと纏め
られた室内。 主の人となりを表すようなその部屋を、フィオはとても気に入っていた。
けれどそれらも今のフィオにとっては自分の心と同じで、どことなくくすみ色褪せて見える。
そして部屋の主たる王女の言葉に反発を覚えても、原因の一端が自分にある以上フィオに反論などできるはず
も無かった。
こうしていると、どこからどう見てもおっとり型の深窓の姫君なのに、一度決めたら頑として自分の意見を曲げない
し、怒りだしたら手に負えない。
穏やかな微笑みが消えた瞬間どうなるかを知っているから、迂闊に強くも出られない。
だからと言って怒りが収まるわけもなく、燻った塊はフィオの中で大きくなる一方だった。
――― こうなったのも、全部全部あいつのせいなんだからっ!
あいつ ――― と呼ばれた、幼馴染であるオージェルとの日常化している喧嘩の数々は、既に離宮内の名物と
なっていた。
初めの頃こそ彼らの部下を含め周囲をハラハラさせていたが、今ではすっかり慣れたもので少々の癇癪や怒鳴り
声には動じもしない。 むしろ一日一回二人のやり合いを見なければ物足りないという面々まで出る始末。
今日も今日とて相変わらずな二人に、この状況ではたわいの無い痴話喧嘩と放っておいた自分も流石に口を出
さざるを得なくなったと、エリーゼはフィオを呼び出したのである。
「近衛や兵士を高圧的に厳しくするつもりは無いけれど、必要以上の馴れ合いは困るの。
特に指揮官であるあなた
やオージェルには、ある程度のカリスマ性や威厳、そして何より信頼性が求められる。
親しみやすさも大事だけれ
ど、それらは戦場において最も大切なことでしょう?」
「っ・・・・・・!」
本当に困り果てたと表情を曇らせるエリーゼに、途端フィオは冷水を浴びせられたようなショックを受け顔を強張
らせた。 まさか、自分達の影響がそこまで出ているとは思いもしなかったからだ。
確かに彼女の言い分はもっともである。 半分娯楽の対象になってしまっているとすれば、それはゆゆしき事態。
このままでは士気にも障りかねないし、上に立つ者としての思慮分別が欠けていると言われても仕方が無い。
「とにかく、一度じっくりと話し合って。 このままだとあなた達の沽券にも関わってきてしまいます」
「はい・・・・・・」
「とはいえ、気が重い・・・・・・」
エリーゼの政務室を後にしたフィオは、戻った自室のベッドに座り両手を広げてバフッと後ろに倒れ込んだ。
弾んだスプリングが何度かギシギシと悲鳴を上げたが、やがてその音も消え室内には静寂が訪れる。
見慣れた天井をしばし見つめながら、フィオは先程のエリーゼの言葉を心の中で反芻し溜め息をついた。
自分の性格なんて、嫌というほど分かっている。 いつもの憎まれ口だって、後になって何度後悔したか数え
切れない。 それなのに。
「何で、喧嘩しちゃうんだろ・・・・・・」
・・・・・・そういえば。
恋人になって大分経つというのに、未だキスから先へと進展しないのもそのせいなのだろうか。
――― や、やだっ・・・・・・あたしってば何考えて・・・・・・っ
突然浮かんだ思考に焦り、がばっと起き上がったフィオはその顔を真っ赤に染める。
――― べ、別に、早くそうなりたいとか思ってるわけじゃ・・・・・・って、今はそんなの関係ないし!
やけに熱くなった頬の火照りは両手で押さえても治まるどころか、耳や首筋へと次々に飛び火していく。
目を閉じて、深呼吸を何度も繰り返す。 けれど、一度意識してしまった感情を抑えるのは容易なことでは
なかった。 響く鼓動が彼女の内に戸惑いを生み世界を掻き乱す。
まるで甘美な毒に蝕まれるようだ。
ならば。
全身を支配される前に。 全てを委ねてしまう前に。
フィオは胸に手を当てて再び深呼吸を繰り返した。 一回、二回、三回・・・・・・。
今度は上手くいったらしい。
「よしっ! もっと、素直にならないとね!」
こうしていたって始まらない。 いつまでも悶々と考えてるなんてあたしらしくない。
気を抜くと誘惑されてしまいそうな心を叱咤するように意気込む。
優先すべきは何なのか。 答えは分かりきっている。
押し寄せるさざ波を打ち消して、フィオはすっくと立ち上がりオージェルの部屋を目指した。
目指すとは言っても、しょせん隣の部屋。 ドアを開けて廊下に出たら、二、三歩歩いた途端に到着である。
心の準備をするには時間も距離もいささか足りない感があるが、目的地へ着くまでのあいだ余計な雑念に囚わ
れずにすむのは、かえって好都合と言えなくも無いだろう。
すうっと息を吸い込んで、眼前の扉を二回ノックする。
「オージェル、ちょっといい?」
応答は無い。
聞こえなかったのかと、再びノックを二回。 だが辺りが静寂に包まれるばかりで、やはり声は返ってこなかった。
おかしい。 この時間ならいつも部屋にいるはずなのに。 それにエリーゼが宮殿内にいる以上、近侍の彼が自分
に声一つ掛けず外出するとも思えない。
妙な胸騒ぎがフィオの心を過ぎる。
「・・・・・・ごめん、オージェル。 入るわよ」
他人の部屋に無断で足を踏み入れるのはかなり躊躇われたが。
――― もし緊急事態だったら大変じゃない。
この際そんなことは言ってられないと自分の行動を正当化し、彼女は扉をガチャリと開けた。
室内をぐるりと見回す。 予想通りと言うか当然と言うべきか、オージェルの姿はどこにも見られない。
装飾の違いはあっても、基本的な造りはフィオと同じである彼の部屋。 二間続きの扉を更に開けると、そこは
寝室となっている。 やはり彼はいない。
「おっかしいなぁ・・・・・・。 一体どこに ――― 」
ふと、ベッドの上に無造作に置かれた衣服に目が釘付けになる。 それはオージェルがいつも身につけている
ものだったが、一つだけ明らかに普段と違う箇所があった。
――― 何、あれ・・・・・・
慌てて駆け寄り、ガバッと掴んで確かめる。
手の中に起きた異変。 それは・・・・・・
「血痕・・・・・・?」
皮膚に付く、ぬるりとした感触。
黒を基調とした生地を覆う、一面の赤黒い染み。 間違えようも無い何者かの血液。
しかも一滴二滴の話では
ない。 もしこれほどの量が人体から一度に失われたとなれば、それは致命傷にもなりかねないだろう。
――― 嘘・・・・・・でしょ?
体中から一気に血の気が引いていく。 寒くもないのに、ガクガクと震えが止まらない。
「っ・・・・・・オージェル!! オージェル!? どこ!?」
血濡れの服を掴み握り締めたままフィオは叫ぶ。 混乱しすぎて、どうしていいか分からなかった。
呼吸は浅くなり、涙がボロボロと溢れ出る。
――― 落ち着かなくちゃ・・・・・・落ち着いて・・・・・・そ、そう! まずは姫にこのことを
―――
取り乱しながらも、とりあえずそれだけを判断したフィオがエリーゼの元に向かおうとした時。
彼女の耳がそれまで聞こえなかったはずの水音を捕らえた。
――― 水?・・・・・・どこから・・・・・・
それがきっかけになったのか、彼女の脳は少しずつだが冷静さを取り戻し始める。
音のする方へフィオがゆっくり歩いていくと、それはどうやら浴室からのようだった。 ここはオージェルの部屋な
のだから、使用しているのも当然彼であるはず。 ということは、少なくともオージェルは命を落とすほどの傷を負っ
たのではなかったのだろうか。 それならそれで、一刻も早く無事を確かめなくては。
焦りや不安が交錯する中、フィオは思いっきりバンッと音を立てて浴室の扉を開けた。
「オージェル! ここに ――― 」
「え ―― ?」
この時、普通に考えればそれがどういう状況を意味するのかすぐに理解できただろう。
けれど今のフィオには、
悲しいかな、あまりにも精神的余裕が無さ過ぎた。
立ち込める湯気の中。 つかの間の沈黙が流れ、数秒間二人の視線がばっちり絡み合う。
ある意味、これが緊急事態というのは間違っていなかった。 ・・・・・・・・・お互いに。
「き・・・・・・きゃあああああああああああああっっっっっ!!!???」
「うぅわっっっ!? フィオっ!?」
絶叫を伴い、止まっていた時間が急激に動き出す。
突然現れた男性の裸体 ―― しかも全裸 ―― を直視してしまったフィオは驚愕しつつも目は釘付け。
焦ったオージェルは咄嗟に手近なタオルを引っ掴んで腰に素早く巻き付けた。
・・・・・・間に合ったかどうかは非常に怪しかったが。
「ごっ・・・・・・ごめんなさいっ! そんなつもりはなかったんだけどっ! ああ!
じゃあどういうつもりだって聞かれても
困るってゆーかっ! いや、あの、だからっ!!」
――― あああ! あたし何言ってんのー――― っ!? いっそ穴があったら埋まっちゃいたいー――― っ!!
いきなり乱入してきた珍客に唖然と立ちつくすオージェル。 フィオはちぎれんばかりに両手をブンブン振りながら
支離滅裂な弁明をするが、何の解決にもなっていない所が物悲しい。
完全に頭が真っ白になったフィオの中で、早々にこの場から退散するという行動はどうやら導き出されず、彼女は
おもむろにしゃがみ込み両耳を押さえた。
「おい・・・・・・フィオ?」
何かを呟いているのか。
近付いてよくよく聞いてみると、「何も見てない、見えてない」 と何度も何度も繰り返している。
――― ・・・・・・フィオ、手の位置が激しく間違ってるぞ。
脱力したようにオージェルが深い溜め息をつく。
――― 無かったことにしたい気持ちは分かるが・・・・・・ていうか、この場合叫びたいのはこっちだろ。
「フィオ・・・・・・分かったから、ちょっと落ち着けって」
同じ場面を共有していても、相手の極端な混乱ぶりを目にすると逆に冷めてしまったりするものである。
オージェルはいたって冷静な声でフィオを宥めようとしていた。 差し出した指先が彼女の肩に触れ、途端その
体がびくっと揺れる。 フィオは反射的に埋めていた顔を上げた。
しかし、どこまでもタイミングの悪い瞬間というのはあるもので。
再びお互いの目線が合った時、巻き方が悪かったのかオージェルの腰の物がハラリと落ちた。
座り込んだ姿勢のフィオに、前屈みで手を彼女へと伸ばしていたオージェル。
今度こそ、何の言葉も意味をなさない。
「いっ・・・・・・いやー―――――― っっ!!??」
「おわぁっ!!??」
あまりの光景に、フィオは勢い良く立ち上がりその場を逃げようとしたのだが、いかんせん場所が悪かった。
ただでさえ水に塗れて足場の悪い所で不安定な動きをすれば、どんな結果を招くのか。
「えっ?・・・・・・っきゃ ――― 」
「フィオっ!?」
掴もうとした腕も、だが寸前で間に合わない。
オージェルの助けも虚しく、重心を後ろにかけ過ぎたフィオは足を滑らせ仰け反るように倒れていく。
シャワーのノズルからは止め処なく湯が流れ落ち、小さな川が作り出され続けている。
その流れを塞き止めた
フィオの体。 仰向けで全身を湯に浸すその姿に、今度はオージェルが青褪める番だった。
「お、おいっ! しっかりしろっ! フィオっ!」
頬をペチペチと叩くが、呼び掛けにも反応を示さない。 抱き起こそうとして、オージェルはその手を止める。
もし頭を打っているのなら不用意に動かすのは危険だ。
纏った衣服は水分を含み着々と重みを増す。
遠のく意識の中で、フィオは心地良い何かに揺られながら恋人の優しい声を聞いた気がした。
目が覚めて、視界に入るのは見慣れた天井。
でも頭がぼうっとして、はっきりしない。 けれど自分がベッドに寝ているのは分かる。
これは、毎日見ているもの
と同じ。 そう・・・・・・ここはあたしの部屋だ。 夢から覚めた、朝の風景。
――― じゃあ、さっきまでのあれは、夢?
「妙にリアルな・・・・・・夢・・・・・・」
「・・・・・・残念だが、夢でも何でもないんだなこれが」
やけに低い、でも聞き慣れた声。
夢うつつを漂っていた感覚がいきなり途切れる。
突然返された声にハッとして振り向くと、そこには憮然とした顔で佇むオージェルがいた。
その表情はいつになく
硬く、漂う雰囲気が心なしか怒気を孕んでいるようにも見える。 しかしそれは特に気にとめもせず、その内、徐々に
覚醒し始めた脳内で思考が一気に暴れ出した。
「え・・・・・・オージェルが、何でここに・・・・・・・・・・・・え・・・え?
あたしの部屋じゃない!?」
そこでようやくフィオは気が付いた。 確かに壁の造りは一緒だが、何もかも明らかに自分の部屋ではない。
きちんと確認すればすぐに分かったはずなのに。 どうやら霞んだ意識が錯覚を起こしていたらしい。
だとすると、これは。
――― オージェルのベッド!?
「や、やだ、あたしってば! ごめん、すぐにっ・・・・・・・・・ったたたた!?」
恋人とはいえ男性の部屋の、しかもベッドで眠り、おまけに不可抗力とはいえ痴女まがいなことまで!
甦った記憶の信じ難い恥ずかしさにフィオは飛び起きた。 いや、正確には飛び起きようとしてそのまま振り子の
如く前のめりにうずくまった。 後頭部にズキズキとした痛みが走ったせいである。
そっと手を添えてみると、僅かに
腫れているような気配。
「いっ・・・たー―― い・・・・・・・・・何よ、コレ・・・・・・?」
しでかした失態はこの際置いといて、とりあえず涙目で傍らのオージェルに訴えてみた。
だが相変わらず渋面を
作ったままの彼からは気遣う言葉の一つも出てこない。
「オージェル・・・・・・?」
・・・・・・様子がおかしい。 いくら何でもここまでくれば何かが違うと嫌でも分かる。
「・・・・・・いいから、そのまま寝てろ」
「っ・・・・・・!?」
戸惑うフィオを気にもせず、オージェルは彼女の肩をいささか乱暴にグイッと掴み引き倒す。
その結果、フィオの
体は再びベッドへ沈むはめとなり、ボフッと勢い良く倒されたせいでスプリングがギシギシと跳ね上がった。
そこまで終えたオージェルは、ベッドの横に置かれたリビングから持ってきたらしい椅子にドッカリと腰を下ろし、
腕と足をそれぞれ組んだ姿勢であらぬ方向を見つめ始めた。 まるで、フィオを避けるように。
何が何だか理解できない。
普段、仲間内の気安さから女性 ―― 特に自分 ―― に対して多少辛辣な言動がありはしても、オージェルの
所作、行動は常に紳士的で。 こんな、粗暴とも思える扱いをされた覚えは一度たりとて無いのに、何故。
・・・・・・もしかすると、受けた屈辱は彼の中でそれほどまでに大きかったということなのだろうか。
「あの・・・・・・・・・どうし ――― 」
「浴室で気を失ったお前を、とりあえず俺がここまで運んだ」
問いかけは相手の声に遮られ、最後まで続けられずに終わった。 硬質的な物言いは一向に変わる気配を見せ
ず、こんなのは初めてで、どう対処したものかとフィオは思案に暮れる。
「倒れた時に頭を打っていたから医者を呼びに行こうとしたんだが、そこで運良く離宮を訪ねてきていた先生に
出くわして、頼んで診てもらった」
「先生に?」
「ああ。 どこにも異常は無いそうだから、安心していい」
思ってもみなかった人物の名に驚かされる。
オージェルばかりかリューベックにまで世話をかけてしまったのかと、フィオはばつが悪そうに恐縮した。
「そう、なんだ・・・・・・・・・・・・えっと・・・・・・ありがと」
「どう致しまして」
感謝の意にも無表情で答えるオージェル。
・・・・・・言葉の端々に棘がある。
彼の真意を量りかねたフィオとの間で、オージェルはそれきり口を噤んだ。
二人が黙ってしまうと、その静けさの
分だけ外の喧騒が大きく響く。 訓練兵達が交える剣の音。 楽しそうな話し声。
風の流れに、木々のざわめき。
それらを遠くに聞いていると、何だかこの部屋だけがとても異質なものに感じた。
不思議で奇妙な感覚。
永遠とも思える、重苦しい時間。
長い長い沈黙にフィオが耐え切れなくなった頃、先に静寂を破ったのは以外にもオージェルの方だった。
「俺が何で怒ってるのか。 お前・・・・・・分かってないだろ」
「・・・・・・・・・・・・」
フィオは変わらずそっぽを向いたままの彼をチラリと窺う。
裸を見ちゃったから?・・・・・・・・・とか言ったら更に怒りを買いそうな勢いだ。
「・・・・・・・・・倒れて・・・・・・意識を失くして、動かないお前を見て・・・・・・俺がどんな思いをしたか」
「オージェル・・・・・・」
言葉に詰まったフィオが見つめる中、オージェルはおもむろに椅子から立ち上がるとベッドをギシッと大きく
軋ませ、彼女に覆い被さる体勢で両脇に腕をつき恋人を見下ろした。
見上げる顔がひくりと引き攣る。
「・・・・・・という訳だから、何故ああいう事態になったのか、洗いざらい吐いてもらおうか」
「・・・・・・・・・はい」
不敵な笑みを浮かべ覗き込んできたオージェルの目は、恐ろしいほど据わっていた。
「・・・・・・なるほど。 つまりお前は、血だらけの服を見て俺が死んだかも知れないと勝手に思い込み、その
動揺のまま浴室に踏み込んで、滑って転んで大騒ぎ。 と、こういう訳か」
「う・・・・・・・・・はい」
はぁー―― ・・・と大きな溜め息をつくオージェルの横で、フィオは掛けている毛布を顔の半分まで引き上げ
小さく返事をする。 同意するには多少不本意な内容ではあったが、彼女はあえて反論しない。
椅子の背もたれに体を預け腕を組むオージェルは、苦虫を噛み潰したような顔で不機嫌を露にしている。
「・・・・・・短絡的にも程がある。 もし本当に俺が深手を負って瀕死の重傷なら、わざわざ部屋まで足を運び、
丁寧に服を全部脱いで、ゆっくり風呂に浸かったり出来る訳ないと思うんだが」
必死でこくこくと頷くフィオ。
「だいたい、確認するまでもなく血みどろの状態で俺が宮殿内を歩けば、それこそ大騒動になってるはずだろ?
すぐさま姫の耳に入るし、それは当然お前の知るところともなるんだから」
フィオはそれにも何度も頷く。
ちなみに服に付いた血の跡は動物のものだとオージェルは説明した。 キロンの森付近の狩場を下見した
帰り道、手負いの獣がいきなり飛び出して来た拍子に避けきれず付着したのだと。
ただ、それが思いのほか
多量だった為、やむなくその場で衣服を脱ぎ宮殿へ戻ったという話だった。
聞いてみれば拍子抜けするほどたわいも無い顛末。 あれほどうろたえた自分は一体何だったのか。
けれど、
己の想像がもし現実になっていたとしたら。 そう考えると、彼の話もどこか嬉しく思えて仕方が無かった。
「とにかく、お前はもう少し冷静な判断能力を養え」
「・・・・・・ほんとにごめん。 これからちゃんと気を付けるから」
怒りとも呆れとも取れるオージェルの声音に、フィオは慙愧に堪えず素直な謝罪を口にする。
これでオージェルの機嫌も直るだろうと思ったのに。
予想に反してと言おうか、何やら訝しむ様子でまじまじと見つめられ、フィオは思わずたじろいだ。
「な、何?」
「・・・・・・何かあったのか?」
「え?」
「いや・・・・・・いつもならここまで言われて黙ってるお前じゃないのに。
何か変な物でも食ったのかと思って」
「し、失礼ね! あたしだってたまには反省くらいするわよ!・・・・・・・・・素直じゃない性格も・・・・・・可愛くないって
・・・・・・分かってるわよ・・・・・・」
あまりといえばあんまりな言い種。 しかし結局は、普段の自分の態度が相手にそう言わせているのだ。
自己嫌悪に、言い返す声も小さな呟きへと変わっていく。
更に毛布を手繰り寄せた指先に力を込めて、フィオはギュッと唇を噛み締めた。
そうでもしないと、ちょっとでも
油断したら涙が溢れてしまいそうだった。
悔しくて。 歯痒くて。 どうにもならないもどかしさ。
「・・・・・・本当に、馬鹿だな」
「なっ・・・・・・何よ!」
今度こそ完全に呆れ返ったような言い方をされ、流石にフィオも食ってかかる。
次の瞬間、ガタッと大きな音をさせ立ち上がったオージェルは、再度圧し掛かる体勢で彼女を見下ろした。
やはり
意図の読めない瞳が見つめてくる。 また同様に詰め寄られるのかと身構えたフィオだったが、幸いその時は訪れ
なかった。 代わりに与えられたのは ――
「うっ・・・・・・んんっ」
―― 深く濃厚な口づけ。
「はっ・・・・・・んむっ・・・うんっ」
それまで幾度となく繰り返してきた行為。 けれど、これほど激しい交わりは過去に経験が無い。
呼吸が間に合わず酸素を求めて逃げようとしたが、すかさず追い縋る唇に難なく捕われる。
乱れた吐息。 粘膜が生む淫らな音色。 全てが絡め取られ吸い込まれていく。
頭の芯は痺れていき、意識が
朦朧とする。 だから、膝を割られた間に何かを感じ思わず強く挟み込んでしまっても、それがオージェルの脚だと
認識するまでには大分時間がかかった。
「こんな・・・・・・」
恥ずかしくてどうしようもないのに。 今すぐ逃げ出してしまいたいくらいなのに、それが出来ないのは彼のせい。
目の前で切なく揺れる瞳は、心が痛くて堪らないと叫ぶ。
そうしてはっきりと思い知る。 彼の想い。 その胸の内。
「こんな思いをさせられたら・・・・・・誰だって心配を通り越して怒りたくもなる・・・・・・大切な人なら、尚更だ・・・・・・」
「オージェル・・・・・・」
本気で責めた訳ではない。 心が凍りつきそうにその身を案じたのは、きっと彼女も同じ。
分かっていて、それでも
抑えきれず。 抱えた不安は膨張し。 安堵と共に、爆発した。
「・・・・・・ごめんね、オージェル」
愛しい人を、フィオはそっと引き寄せ抱き締める。 前傾姿勢でシーツに突っ伏す形になったが、もちろんオージェル
には抗う理由などどこにも無い。 彼女に重みがかからないよう注意を払いつつ、されるがままになっている。
伝わるぬくもりが確かな安らぎをもたらす。 たったそれだけの事で、どこまでも強くなれる自分がいて。
それがフィオには不思議であり、また喜びでもあった。
「あたし、努力するから。 だから・・・・・・」
彼に相応しい女性になりたい。
もっと強く。
もっと優しく。
いつでも頼って貰えるように。
与えられるばかりでなく、与えてあげられる存在になりたい。
フィオの中で狂おしい恋情が渦巻いていた、その時。
「・・・・・・そうじゃない」
「え・・・・・・?」
耳に届く少しくぐもった小さな声。 先程までの感情を押し殺したものとは違う。
それに・・・・・・聞き間違いで
なければ、今の言葉は否定に聞こえたが。
「性格を直せなんて、別に思ってない」
「だ、だって、さっきまで・・・・・・」
今度ははっきりとした否定。
・・・・・・打って変わって180度違う台詞。 彼は何を言いたいのだろう。
そんなフィオの戸惑いを余所に、オージェルはむくりと起き上がると、おもむろにニッと笑った。
その顔はまさに ――― してやったり。
「俺が被った心労を考えれば、これくらいの意趣返しはさせて貰わないと割に合わないだろ?」
「なっ・・・・・・」
もちろん誤解を招くようなことをした自分にも多少なりと責任はあるが、それはそれ、これはこれ
―― などと
のたまうオージェルに、フィオは頬を紅潮させ絶句した。
――― 完全にやられた・・・・・・っ!
「あたしっ、本気で悩んだんだから! オージェルを困らせて、皆に迷惑かけて
―――― 」
あれほど思い悩んだ時間はいったい何だったのか。 純情な乙女心を返せと言わんばかりの剣幕でフィオが
詰め寄る。 けれどオージェルから返ってきたのは、憎まれ口でも挑戦的な態度でもなく、「それこそ、今更だ」
という優しい言葉と曇りの無い真摯な瞳だった。
「無理に自分を変える必要なんて無いんだ。 お前は良くやってる。 誰も迷惑だなんて思ってない。
信じてるし、
頼りにしてる。 それに何より・・・・・・俺は、そんなありのままのお前を好きになったんだから」
柔らかな微笑みは、いつも見ている彼のもの。 その頬が、ほんの少し照れている。
上目遣いで真意を窺う。
「・・・・・・本当に?」
「ああ」
「・・・・・・絶対絶対、嘘じゃない?」
「誓って」
疑い深いなぁ・・・・・・とオージェルは、それでも嬉しそうに笑った。 つられてフィオもクスッと笑う。
「うん・・・・・・有難う・・・・・・」
自分とは全然違う広い背中に両腕を回し、上着を掴む手に彼女はそっと力を込めた。
寄り添うように胸元へコツンと額を預けてくるフィオの背をポンポンと軽く叩き、オージェルは安堵の息を漏らす。
そんな何気ない行為一つで、もう安心できてしまう現金さが単純だと思うし、少しだけ悔しくもあるけれど。
それでもいいと納得している自分がいて、それは決して不快なものではなく、むしろオージェルがたった一人に
だけ与えてくれる特権とも思えてきて。 フィオは例えようの無い嬉しさが全身に広がっていくのを感じた。
「それにしても・・・・・・」
幸せの中、フィオが甘い余韻に浸っていると、急にグッと背を引き寄せられる。
熱い吐息が耳にかかった。
「見られたのがお前で良かったよ。 どんな理由であれ、他の女性に裸を晒したりしたら可愛い恋人に申し訳ない
からな」
「!?」
睦言のように息を吹き込まれ、フィオは目に見えて狼狽し抱かれた腕の中でもがき始めた。
だが、華奢な背を
がっちりと抱えた腕は一向に離れたがらない。 更に。
――― 俺の全てを知ってるのは、未来の嫁さんだけで充分だ。
そう呟いたオージェルに、記憶の彼方へ忘れ去ろうとしていた事実が甦る。 そして ――
『責任、取ってくれるんだろ? 今夜』
「!!」
衝撃的な甘い誘惑は、一瞬にしてフィオの心を攫った。
自分を抱く ―― と耳元で熱く囁いたオージェルに、彼女の体温は一気に跳ね上がり緊張が走る。
けれど、不思議と怖さは感じない。 合わさる胸の間で、同じくらい早鐘を打つ鼓動が伝わってきていたから。
フィオはこくんと一つ頷く。
恥らう恋人を見つめ、彼は嬉しげに笑顔を輝かせた。
世界の片隅で初めて過ごす夜に。
惜しみなく降り注ぐのは、きっと愛の欠片。
+ + + +
「姫さま、フィオさんに言ったこと、本当なんですか?」
エリーゼの部屋で食後のひとときを寛ぎながら、不安気な表情のルシアンが彼女に尋ねた。
どうやら昼間の話を
耳にしたらしい。 そのあまりにも深刻な雰囲気にエリーゼは思わず苦笑する。
「・・・・・・そんな訳ないでしょ? あれくらいでどうにかなるような部隊だったら、この国はとうの昔に崩壊してるわよ」
「あ・・・・・・そうか。 それもそうですよね。 良かった〜。 一時はどうなるかと思いました〜」
エリーゼの言葉に納得したのか、ルシアンは心底ほっとした様子で既に冷めかかったお茶を口に運ぶ。
数分前
までやけに落ち込んで気を揉んでいたとは思えないくらいニコニコとした笑顔。
そんな彼女に目をやりながら、エリーゼはそっと溜め息をついた。
――― フィオもそうだけど、ルシアンもルシアンよね。 素直というか、信じやすいというか、とにかくお人好し。
二人とも王女付きの側近なのだから、わたくしに伝わる情報を彼女達が知らない訳がないのに。 そういう所が
抜けてるっていうのよ。
多少言い過ぎのような気がしないでもないが、一国を治める長としてはやはり憂慮すべき点だろうと、エリーゼ
は自分の意見を訂正しなかった。 その代わり、大切な局面では抜かりの無い彼女らに、あえて喚起もしない。
結局は誰よりも信頼できる優秀な家臣であり、かけがえの無い友なのだ。
フィオへの苦言も、彼女なりに考えた一つの策に過ぎない。 お互い他が目に入らないほど一途に想い合っている
くせに、寄ると触ると 口論の嵐。 本人達は至って真剣なのだろうが、はたから見ればこれほど馬鹿馬鹿しいものは
無い。 そんな二人を見るに見かねたエリーゼの、ちょっとしたおせっかいだった。
もちろん自分がしゃしゃり出なくとも夫婦喧嘩は何とやらで、結局は仲の良い似合いのカップルなのだが。
――― でもオージェルもそろそろ我慢の限界だと思うの。 男の人は十代の頃が一番性衝動が強いって言うし、
それであの状況はやっぱり辛いわよね。 これでフィオとの仲が進展すればわたくしも嬉しいし。
彼女の行動が思いがけず功を奏し、結果的に急展開を見せたオージェル達のことなど知る由も無く、エリーゼ
は乙女にあるまじき状況分析をし始める。
年若い次期統治者は、見かけに寄らず結構な耳年増だった・・・・・・。
「・・・・・・ねぇ。 今回の喧嘩の原因って何だったの?」
ふとエリーゼは、そういえば発端を知らなかったとルシアンに尋ねてみる。
ああ、それなら ―― と、彼女はニッコリ微笑む。
「結婚したらフィオさんが家庭に入るかどうか、だそうですよ?」
「・・・・・・平和って素敵ね」
エリーゼは、フッ・・・・・・と諦めたような溜め息を漏らした。
END
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32000HITキリリク。
犬も吐いて捨てるほどの二人です。(笑)
こ、こんなんで良かったでしょうか。(ドキドキ)
このお話はmasakun様のみ、お持ち帰り可です。