変 身
童話「シンデレラ」より
小さな王国の郊外に建つ、とある貴族の屋敷。
そこには灰被りと呼ばれる愛らしい少女が住んでいた。
もちろん通称であり彼女にはリオという名前がきちんとあるが、誰もその名で呼ぼうとはしない。
家族は四人。
仕事で留守がちの父と後妻である義母。 それから義母の連れ子の義姉が二人。
産みの母が亡くなって数年後にやってきた三人は、最初はリオにとても優しかった。
だが何時頃からか、彼女達のリオに対する態度が目に見えて余所余所しくなっていく。
初めはそれだけだった。
けれど、ある日突然。
外出を一切禁じられたあげく屋敷内の清掃を言い渡され、名前も灰被りと改めさせられた。
理由は解らない。
もしかしたら何か粗相をして義母の機嫌を損ねてしまったのかもしれないが、いくら考えてみてもリオには全く心当たりが
なかった。
屋敷にはもちろん使用人がおり掃除の手は足りている。 それでも今日はこちら、明日はあちらと毎日どこかしらの清掃を
言い渡され使用人が自分の持ち場をリオに明け渡す。
同時に部屋も服も質素に変えられた。
以前より大分狭くなった部屋で、これまでの少女らしい服装を禁じられたリオはお仕着せのようなワンピースで毎日を過
ごし、言われるままに屋敷の掃除に精を出した。
訳も分からず一方的に強制されるのを理不尽に思わないではない。
しかしリオにとって彼女らは間違いなく家族で、なさぬ仲でも義母は義母である。
それに悪いことばかりではないと思っていた。
掃除を終え疲れた身体で部屋に戻ると必ず豪華で美味しそうな食事とデザート、それに手荒れを防ぐための高級クリー
ムが何時も用意されていたからだ。
最初は不思議に思ったが、きっと同情してくれた使用人の誰かがこっそり置いてくれているのだろうとリオは心から感謝
した。
そんな日々が続き、更に数年が経ちリオが十八歳の誕生日を迎える夜、王城で大規模な舞踏会が開かれることになり
招待状が送られてきた。 主催は国の若き王子である。
『ねぇ、ドレスはどんなのが良いかしら』
『あぁ、素敵な殿方に見初められたらどうしましょう』
舞踏会を控えたリオの義姉達は、初めて城に招かれるとあって浮き足立ちドレス選びに余念がない。
ああでもない、こうでもないと騒ぐ二人を見ながら、けれどリオの気分は沈んでいた。
義母がリオの参加は許さないと言ってきたからだ。
彼女は本日もう何度目か分からない大きな溜息を一つ吐いた。
招待状は仕事を抜けられない父を除いた家族全員に届いており、そこには当然リオも含まれている。
義姉達のように着飾りたいとか、ましてや異性との出逢いを望んでいる訳ではない。
ただ、家族で招かれたのだから自分もその一員としてその場に立ちたいと思った。
それに、一目で良いから見てみたかったのだ。
まだ一度も出会ったことのない、華やかに煌めく世界を。
それでも義母は頑なに意見を覆さず、結局彼女一人だけ家に残ることが決定した。
* * * * * * * * * * * * *
羨望と諦めを胸に抱えて迎えた舞踏会当日。
遠くの空には、この素晴らしい夜を祝う為の美しく目映い花火が繰り返し打ち上げられ人々の心を躍らせている。
だがそれも自分には関係のないことだと言い聞かせるように沈んだ気持ちを抱えたまま、リオは期待に胸を膨らませてい
る様子の義姉達と共に屋敷前の通りへと重い足取りで向かう。
待たせていた馬車に三人が乗り込むと、義母は継子に言った。
「良いこと? あなたは静かに留守番をしてなさい。 誰もいないからといって、決して何処かに行こうとしては駄目よ?」
「はい・・・・・・」
いつものことだと諦めて、リオは素直に返事をする。
夜通し続くという今回の舞踏会に合わせて、街のあちらこちらでは大きな祭りが開かれ賑わっている。 屋敷の使用人達
も楽しみたいだろうという義母の配慮から、今夜から明日にかけて彼らに休暇を許可した。
つまり、これからリオは文字通
り一人きりとなるのだ。
「では、行ってくるわね」
「はい。 行ってらっしゃい」
娘二人を伴った義母は、しかし直ぐには出発せず何故か見送るリオに向かいじっと視線を向けた。
特に怒っているという様子ではなく、どちらかというと何か言いたげにしているように見える。
「・・・・・・?」
一体どうしたというのだろう。
何時にない義母の態度に戸惑うリオに気付いたらしかったが、彼女はそれでも何事もなかったかのように御者に指示を
出し城へと向かって行った。
姿が見えなくなるまで見送ると、後にはしんとした静けさだけが残る。 祭りの喧騒もここまでは届かず、言いようのない
寂しさが胸に募った。
「あたしも、行きたかったなぁ・・・・・・」
外灯の仄かな明るさが静寂に拍車をかけているようで、それもまたリオの心を暗くさせた。
今夜は舞踏会であると共にリオが成人を迎える十八歳の誕生日でもある。 そんな人生でたった一度の特別な日を一人
で過ごさなければならない悲しみに、思わず涙がじわりと滲んでくる。 これまでのことを思えば家族が祝ってくれる状況は
考え難い。 でも、もしかしたらと想像していたのだ。 せめて大人として扱われる節目くらいは家族の一員として過ごしてく
れるのではないかと。
そんなささやかな願いも呆気なく潰えてしまった。
けれど、いつまでもこうしていたって始まらない。
厨房を借りて夕食でも作ろうと気を取り直し屋敷に入ろうとしたリオを、だが後ろから呼び止める声がした。
「こんばんは、お嬢さん」
「・・・・・・?」
周囲には誰もいないのを確認したのにと訝しく思いながら振り返ると、そこには大きなフードにロングローブという出で立
ちの老婆が一人立っていた。
「・・・・・・どちら様ですか?」
「通りすがりの者さ。 それより、お城の舞踏会には行かないのかい?」
目深に被ったフードのせいで顔は見えないが、とても優しそうな声をしている。
今日は国中の貴族という貴族が城に招かれる特別な夜。 そんな日に娘が屋敷に残っているのかと、おそらく彼女の指
摘はそこなのだろう。
だが、どうして華やかなドレスを着ているわけでもない自分がこの家の娘だと分かったのだろうか。
そして何故こんな所に老婆が一人でいるのだろう。
色々と不思議に思ったが、それでもリオは尋ねる彼女に事情を説明した。
「行きたいとは思うけれど、義母に反対されてしまったんです」
「そうかい。 それは残念だねぇ・・・・・・」
老婆の声は小さな驚きと憐憫を含んでいた。
「でも、良いんです。 皆が楽しんできてくれれば、それで」
「・・・・・・それなら、そんな健気なお嬢さんにプレゼントをあげよう」
「え・・・・・・?」
何のことかと聞く間もなく老婆が取り出した短い杖をついっと振ると、次の瞬間にはもうリオの身体は煌びやかで豪奢な
美しいドレスに包まれていた。 薄紫を基調にしたそれは清楚な印象でありながら、無数の真珠と緻密な刺繍がふんだん
に施されていることで一目で高価な代物だと知れる。
「これは、一体・・・・・・?」
自分の身に何が起こったのか。
「この鏡で見てご覧」
老婆の横には、どういう仕組みなのかは分からないが人の背丈ほどもある楕円形の鏡が突然出現し、縁に沿って炎の
ようなものを揺らめかせながら宙にぴたりと止まった状態で浮いている。
理解の範疇を超える事態に訳が分からず戸惑ったが、とりあえず促されるまま自分の姿を映してみた。
「凄い・・・・・・」
これが本当に自分なのかとリオは目を疑った。
結い上げた髪の毛先は緩く巻かれ、頭上には宝石を散りばめた小さなティアラ。 首元には派手すぎずに主張する繊細
な細工のネックレス。 そして足元を見れば灯りに反射してキラキラと美しく輝くガラスの靴。
本物を見たことはないが、まるで何処かの国の王女のようだと思った。
「次はこっちだよ」
どうやら魔法使いであるらしい老婆により、ねずみは御者に、かぼちゃは馬車に姿を変えてリオを待っている。
「これなら、お嬢さんも舞踏会に行けるだろう」
「・・・・・・こんなにして頂いて・・・・・・あの、でも、あたしにはお返し出来るものが何も・・・・・・」
諦めていた舞踏会に行けるのはとても嬉しい。 しかし初対面の彼女にここまでしてもらう義理はないし、それに正直こん
なに高価なものを与えられても困ってしまう。
「そんなに堅苦しく考えることはないさ。 これは魔法なんだからね。 術が解ければ全ては消える。
こちらがする損など何
もないよ。 お嬢さんが喜んでくれれば、それが何よりのお返しさ」
「お婆さん・・・・・・」
払える対価がないとの心配を一笑に付した老婆は皺を深くして微笑む。
「有難う、お婆さん。 何とお礼を言えばいいか」
感謝してもしきれないとリオが老婆に向き合えば彼女は嬉しそうに言った。
「礼なんか良いんだよ。 それより良くお聞き。 この魔法が効くのは今夜十二時までだ。
良いかい、十二時の鐘が鳴り終
わる前に城を出るんだよ」
「分かりました」
老婆の言葉に頷き、リオは何度も彼女に感謝しながら屋敷を後にし城へと向かった。
王城に到着したリオが広大な庭から建物内へ続く大階段を上って行くと、両側に立つ衛兵が彼女を大広間へと通してく
れた。 通常、こういった催しの場合だと同伴の無い参加は拒まれるのではと内心びくびくしていたのだが、どうやらそれ
は杞憂だったらしい。
「凄い・・・・・・」
明るい笑い声と眩い光が溢れる大広間は、まさに煌めく別世界。
華やかな衣装に身を包んだ貴婦人や紳士達が、遥か前方で麗しい音を紡ぐ音楽家達の生演奏に合わせ優雅に踊って
いる。
とりあえず彼らの邪魔にならないようにと壁沿いに進んでいき、だがやがてリオはふと奇妙な違和感を覚えた。
居合わせる誰とも目が合わないのだ。
この場を埋め尽くすのは踊っている人々ばかりではない。 談笑する者もいれば、飲み物を口にしたり繰り広げられるダ
ンスを静かに観賞している者も沢山いる。 国中の貴族が揃っているだけあって、きっと普段なら広すぎるほどであろう広
間も大勢の人で溢れ返り窮屈とまではいかないがそれなりの密度である。
なのに誰とも視線が合わないなどと、果たしてそんなことがあるだろうか。
それはまるで、自分が此処に存在していないかのような感覚だった。
大抵の貴族の娘は、ある程度の年齢になれば社交界にデビューする。 リオの義姉達とて城に招かれたのは初めてで
あるものの、それなりに高位の者が集まる場には既に何度も参加していた。
それに比べてリオは家族とすら認めて貰えていない身。 もちろん社交場に出るのはこれが初めての為、周囲に圧倒さ
れて気後れしてしまい、自分から声を掛けることさえできない。
場違い感が拭えないのと、がやがやとした音の洪水に呑み込まれそうで何だかくらくらするリオは自分の身体を支える
ようにして壁に手をついている。 普通なら異質な存在として誰かの目に止まってもおかしくない。 ましてやこれだけの人
が集まる中、誰一人彼女を見ようとしないのはむしろ不自然である。
もし、あえて目に入らぬようにしているのならば、それは厄介事に巻き込まれたくないという心理の現れだろう。
やはり、義母の言う通り自分は来るべきではなかったのかも知れない。
「どうかした? 顔色が良くないよ?」
後悔が胸に渦巻く中、誰かがリオに声を掛けてきた。
声の主に振り向くと、漆黒に金を縁取った豪奢な正装に身を包んだ青年が心配そうな表情で立っている。
すらりと背が
高く顔立ちが整った、優し気な紫の虹彩を放つ瞳が印象的な男性だ。
「あの・・・・・・人に酔ってしまったみたいで・・・・・・」
「それなら少し休んだ方がいい。 こっちへおいで」
労わるように手を引かれ言われるまま大広間を抜けると、廊下を少し行った先にある客間らしい一室に案内された。
王城の客室は流石に豪華で、設えられた調度品はリオの目から見ても一流品であることが容易に知れて溜息しか出て
こない。
「そこに座ってて。 今お茶を淹れるから」
「すみません、有難うございます・・・・・・」
促されて大きなソファに腰を下ろすと、知らず緊張していたのかリオは少し長めの息を吐く。
すると少し落ち着きを取り戻
せた感覚があり、何となく感じていた胸の苦しさも和らぐ気がした。
「さぁ、どうぞ」
「有難うございます。 いただきます」
手元のティーセットで青年が自ら用意してくれた暖かい紅茶からは芳しい香りが漂い、リオの鼻腔を甘くくすぐる。
一口、こくんと飲み込んだ。
「美味しい・・・・・・っ」
「それは良かった」
思わず飛び出た感想に、彼は嬉しそうに笑う。 しかも爽やかさのおまけ付き。
彼が何者なのかは全く分からないが、それにしても本当に美味しいとリオは感嘆した。
ミルクを合わせているにも関わらず、紅茶本来の香ばしさがきちんと感じられる。
よほど淹れ方が上手いのだろう。
一見してかなり身分の高い人物なのだと思われるが、慣れた手つきから鑑みるに彼にとってはどうやら日常のことらし
い。 高貴な人にしては珍しいと、リオは少し驚いた。
「俺はリョウ。 君の名前を教えてくれる?」
問われて一瞬躊躇ったがリオは包み隠さず、けれど小さく答えた。
「・・・・・・灰被り、です」
「シンデレラか・・・・・・それはそれで可愛いと思うけれど、本当は違うだろう?」
当然の疑問だ。 よほど酔狂な親でもなければ子供にそんな名を付けたりはしない。
「・・・・・・リオ、と言います・・・・・・」
「リオ・・・・・・君に良く似合った、愛らしい名前だ」
「・・・・・・・・・・・・」
見目麗しい男性に愛らしいなどと言われたのは初めてで、それが名前のことであっても思わず顔が熱くなる。
リョウも自分で淹れたミルク無しの紅茶を飲みながら、その後はたわいのない話に花を咲かせた。
と言っても彼は女性から根掘り葉掘り話を引き出すのは礼儀に反すると心得ているようで、話題は主に彼自身のことで
ある。 仕事が忙しくなかなか外に出掛けられないとか、実は嫌いな食べ物があるのだが周囲には悟られないようにして
いるなど、聞く方も気を遣わなくて済むような内容が大半だった。
しかし最後に出てきた話だけは少し違っていた。 実は、ずっと恋焦がれている想い人がいると打ち明けられたからだ。
もう何年も想い続けていて、けれど事情があってまだ結婚には至らないのだと。
はにかんだ笑顔でそう告げる彼は本当に嬉しそうで、相手を心から好いているのだという感情がリオにも伝わってくる。
とても喜ばしく聞いているこちらまで微笑んでしまうような話だ。
聞きながら胸の奥が何かの痛みを訴えたが、それは気付かなくて良いものなのだと知っている。
「その方と、早く一緒になれると良いですね」
リオは言うべき言葉を間違うことなく伝えた。
誰かが掴む幸せは、祝福されて然るべきだ。
そう返すと、何故か二人の間に静かな沈黙が流れ、それまで笑顔だったリョウの瞳が切なげに揺れた。
「あの・・・・・・?」
「・・・・・・このまま、帰したくないな」
「え?」
言われた意味が分からないと聞き返した刹那、すいっと彼の顔が近付いてくる。
「んんっ・・・・・・!」
あまりの至近距離に心臓が跳ね上がる間もなく腕を引かれ抱き寄せられたかと思うと、あっという間に唇を奪われた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
受けた衝撃の大きさに頭が付いていかず、それでもかろうじて反射的に動いた腕まで難なく押さえ込まれてしまい、絡
め取られた指先に力が込められ彼の熱が伝わってくる。
「んっ・・・・・・あっ!」
押し付けられていたものがやがて離れほっとしたのも束の間、今度は薄く開いてしまった唇の隙間から熱い舌が潜り込
んできた。
「んぅ・・・・・・むっ・・・・・・」
まるで別の生き物のように蠢く舌に口内を舐め取られ、上手く呼吸ができない。
優しい、けれど情熱的なキス。
初めて逢った人と、こんな風にするなんてどうかしている。
そもそも彼は想う人がいると言っていたのに、どうして他の女に口づけなどするのだろう。
こんなのは許されないと混乱するリオの、けれど身体の奥の何処か知らない場所が熱く疼いた気がした。
いけないと思う心とは裏腹に、どうしようもなく惹かれてしまうのを止められない。
頭では駄目だと分かっていても彼を突き放せない自分がいる。
そんな自分は浅ましいと思った、その時。
十二時を告げる城の時計が最初の鐘を大きく響かせた。
はっと我に返ったリオは力任せにリョウを引き剥がし、荒く息を吐きながら彼の濡れた唇に釘付けになりそうな視線を無
理矢理逸らす。
「あたし、帰らないと・・・・・・っ」
何かを振り切るようにそれだけ告げて、リオはくるりと踵を返し扉へ向かい走り出した。
早く戻らねば自分を信用してくれ
た老婆との約束を破ってしまいかねない。
「リオ!」
それでも追いかけてきた声の必死さに思わず立ち止まり振り返ると、そこには再び彼の揺れる瞳があった。
「また、逢おう」
「・・・・・・・・・・・・っ」
それには答えず、リオは泣きそうになりながら元来た通路を戻り玄関ホールへと急いで走った。
どんなに真摯に聞こえたとしても、あれは戯れ言。 勘違いをしてはいけない。
「あっ!」
自分の心に何度も戒めを言い聞かせながら最初に通った時と同じ外へと続く長めの階段を駆け下りる途中、 突然、夜
のしじまに硬質で甲高い音が数度鳴り響いた。 リオが僅かに躓いた拍子に片方の靴が脱げてしまったのだ。
慌てて拾
おうとしたが、しかしそれでは履き直している間に鐘が打ち終わってしまう。
「早く、行かなきゃ・・・・・・!」
老婆には申し訳ないが靴は諦めて少しでも城から離れようと必死で走り、気付けば城門を抜けた場所に広がる森の入
口に辿り着いていた。
「はぁっ・・・・・・はぁっ・・・・・・」
息を切らせながら後ろを振り返ると、だいぶ遠ざかったというのにそれでもまだ城は大きくそびえ立つ。 あそこに先ほど
まで自分がいたなんて、未だ夢のようだ。
「お帰り、お嬢さん」
「・・・・・・お婆さん・・・・・・」
リオが感慨深く城を眺めている時、何処にいたのか件の老婆が姿を現した。 きっと心配で様子を見に来てくれたのだろ
うことを思うと、有難いのと同時に申し訳なさでいっぱいになる。
「ごめんなさい・・・・・・靴を片方、失くしてしまったんです・・・・・・せっかく用意して下さったのに」
既に魔法は解けている。 豪奢なドレスも装飾品も全て消え元の質素な服に身を包み、唯一残ったガラスの靴の片割れ
を両手に乗せて差し出すリオに、だが受け取った老婆は怒るどころか優しく微笑んだ。
「構わないさ。 お嬢さんが楽しめたのなら、靴くらい安いもんさね」
「お婆さん・・・・・・」
「さぁ、戻ろう。 家まで送るよ」
言って魔法使いの老婆がまた杖を取り出しついっと振ると、もうリオの身体は自宅屋敷の玄関前に立っていた。
驚きすぎて声も出ないリオの疑問が分かってしまったのか、老婆は何とも可笑しそうに言った。
「行きもこうすれば早かったが、夢見るお嬢さんに演出は大事だろう?」
わたしも昔は乙女だったからねと冗談交じりのように背を反らして見せる老婆の態度に、もしかしなくても彼女は今夜の
出来事を全て知った上で慰めてくれているのかも知れないと思い至り、リオはそんな彼女の心遣いをとても嬉しく感じた。
「有難う、お婆さん。 今日のこと、あたし一生の宝物にします」
こんな日は、もう二度と来ないと知っている。 とても悲しい日ではあったけれど、それでも最高に素敵な時間だった。
きっと、ずっと忘れない。
「・・・・・・さぁ、もう家へお入り」
感謝を込めて笑顔で告げるリオに、老婆は少し複雑そうな笑みを浮かべて別れを促す。
「さようなら、お婆さん。 お元気で」
「あぁ・・・・・・お嬢さんも」
屋敷の扉を閉めるまでずっと見送ってくれる老婆の姿が完全に見えなくなり、リオの非凡な日常は完全に終わった。
舞踏会は夜通し行われる為、義母や義姉達はまだ戻らない。 祭りを楽しむ使用人達も同様だ。
「・・・・・・・・・・・・っ!」
此処には誰もいないのだと思った途端、強烈な切なさや寂しさが一気に込み上げてきたリオは空腹であることも忘れて
自室へ駆け込み、ベッドの中で毛布を被りひたすら泣いた。
泣いて、泣いて。
そして何もかも綺麗に流されてしまえば良いと思った。
痛みも、苦しみも。 何もかも。
全て綺麗に消えてしまえば良いと泣き続け、そうして疲れて眠った身体が目覚めたのは明け方まだ朝陽が漸く昇り始
める頃だった。
「王族の方々、素敵だったわね」
「皆様、ロイヤルブルーのお召し物がよく映えていらっしゃったわ」
朝方、帰宅した義姉達は朝食を摂りながら早速舞踏会の思い出話に花を咲かせていた。
使用人達はまだ半数ほどしか戻っていない為、傍らで手の足りない給仕の手伝いをしつつそれを聞いていたリオは城
で出逢った青年のことを思い出していた。
品のある立ち居振る舞いに、あの出で立ち。
そして何よりも、リョウという名前。
もしかしたら彼が王子だったのではないかとの考えが何度か頭を過ぎったが、義姉達の話でそれは間違いであると証
明された。 そもそもリオの為に王子が自ら主催する舞踏会を途中で抜け出すなどありえないし、彼の服装も漆黒ではな
かったと言う。
ならば、名前しか知らないあの青年は一体誰だったのだろう。
「リョウ・・・様」
給仕を終え本来の仕事に戻るべく一旦自室に戻ったリオは、この国の王子と同じ名前を持つ人物の姿を思い出し、そっ
と自分の唇に触れた。
「・・・・・・っ」
瞼を閉じれば、それだけであの時の熱が鮮やかに蘇ってくる。
自分は本当にどうしてしまったのだろう。
初めて出逢った男性と深い口づけを交わすなど今でも信じられないし、それ以前にあってはならない。
何より彼は、自分ではない他の誰かのものなのだ。
それなのに胸の高鳴りが抑えられない。
そして、痛みも。
きっと、これが恋で、失恋。
初恋と失恋が同時にやってくるなんて笑い話にもならない。 世界は何て残酷なのだろう。
知らず涙がまたぽろぽろと零れて、リオの心は行き場の無い苦しさに押し潰されそうだった。
舞踏会から二週間後。 突然、国から一つのお触れが出された。
それは王子がガラスの靴の持ち主を探しており、ぴたりとサイズが合った女性を妃にするという内容だった。
これに沸いたのは国中の女性達である。 もしかしたら自分が妃になれるかも知れないと気もそぞろに浮き足立ち、そこ
かしこでちょっとした騒動が起きるほどの盛り上がりようだ。
しかしリオは混乱した。 そして奇妙な話だとも。
ガラスの靴と言われて思い浮かぶのは一つしかない。 あの日、やむを得ず城に置いてきてしまった物だ。
もちろんこの
世にガラス製の靴などきっと沢山あるのだろうから、自分が自意識過剰すぎる可能性は否めない。
しかし持ち主を探して
いるとなれば、それは靴を落とした、もしくは失くした人間がいることを示している。
果たしてそんな人物が他にも存在する
ものだろうか。 そして、もし仮に王子の持つ靴があの夜のものだとしても、彼には一度も面識のない自分を探す理由など
全くないはずだ。
城の捜索隊は国内を隅から隅までしらみつぶしに回るという。 ならば此処へも間違いなく来てしまうに違いない。
本当にあの靴であるなら、それは本来魔法使いの老婆の物。 笑って許してくれた彼女に再び会える確証は一つもない
が、それでもできればきちんと返したい。 その為には何としても取り返さなければならないが、ひとたび靴を自分の物だと
認めてしまえば確実に見も知らぬ王子と結婚させられてしまう。
そんなのは耐えられない。
ずっと心を捕らえて離さない青年を想い、リオはどうしていいか分からず途方に暮れた。
「あなたは出てきては駄目よ。 良いわね?」
二人の娘のどちらかを王子の妃にと目論んでの発言なのだろうが、そんな義母の思惑とは別の所でリオは必死にこくこ
くと頷いた。 とうとう城からの使者がやってきたからだ。 屋敷の前にずらりと居並ぶ捜索隊の列は物々しいほどで、思わ
ずリオの顔も青褪めてしまう。
「この屋敷の娘は三人と聞いている。 全員ここへ」
玄関ホールに責任者と思われる男の声がやけに大きく響く。
「わたくしどもの娘は二人です。 何か勘違いをなさっているのでは?」
結果的にリオを護ってくれる形でその情報は誤りだと義母が訂正したが、残念ながら男には通用しなかった。
「いや、確かに三人だと承知している。 隠すと為にならんぞ」
「・・・・・・・・・・・・」
調べはついているとばかりに断言する者が相手では、もはや義母は観念するしかない。
結局、義姉達にリオを含めた三人が呼び出され順番に靴を履かされる羽目になってしまい、万事休すの事態である。
調査の場には真っ赤な厚い絨毯がまるで道のように外から室内へと敷かれ、靴を合わせる為にと用意されたらしい椅子
はとてつもなく豪華だった。 これを一軒一軒の家で繰り返してきたのだとしたら、さぞご苦労なことである。
「まずは一人目の娘、前へ」
一番上の義姉が呼ばれ、この家には不釣合いなほど立派な椅子に座らされた。
そして靴が当てられる。
「・・・・・・違うな」
先ほどの男が自ら娘の足に靴を履かせてみたが、どうやら合わなかったらしい。
「次、二人目の娘、前へ」
二番目の義姉が呼ばれ同じように靴を当てられた。
「・・・・・・こちらも違う」
そしてやはり合わない。
「次、三人目の娘、前へ」
とうとう自分の番となってしまいリオは恐怖に足を竦ませたが、もちろん逃げられるはずもない。
「・・・・・・どうした? 三人目の娘、早く前へ」
「は・・・・・・は、い・・・・・・」
覚悟も決まらないまま、ゆっくりと進み出て椅子に腰掛けたリオの足に靴がそっと当てられる。
「これは・・・・・・」
男の目が驚きに見開かれた。 当然だろう、靴がぴたりと合ってしまったのだから。
これでいつでも老婆に返せるという安堵と王子の妻にさせられるという絶望感が、リオの心に同時に押し寄せた。
「伝令! 伝令! お妃になられる御方を見つけましたぞ!!」
すっくと立ち上がった男は、誰が止める間もなく即座に外まで聞こえる大声で目的の人物を見つけたと知らせてしまう。
リオはもう顔面蒼白だ。
それでも往生際悪くどうにか逃げられないものかと震える足取りで屋敷の奥へと駆け込もうとするリオの前に、彼女より
も更に顔を蒼くさせた義母が立ち塞がった。 一巻の終わりだ。
「灰被り、お前・・・・・・」
「ち・・・・・・違うんです、お義母様! あたしは王子様と結婚なんてしたくありません・・・・・・!!」
実の娘を王子に嫁がせたい義母からすれば、これは由々しき事態だ。 もちろんリオにはそれを邪魔するつもりなど毛頭
ないので全力で拒絶の言葉を叫んだのだが、果たしてぶるぶると震える彼女にそれは届いているだろうか。
婚姻は断ると宣言した娘に対し俄かに騒がしくなっていく使者達など、もうどうでも良かった。
早くこの場から消え去りたいと足掻くリオの耳に、だが不意に何処かで聞き覚えのある声が響いた。
「俺の妻になるのが、そんなに嫌?」
流石に傷つくと困り顔で苦笑しながらカツカツと靴音を鳴らし姿を現したのは、あの夜リオの唇と共に心まで奪った麗しい
青年、リョウだった。
「リョウ・・・・・・様・・・・・・?」
どうして、彼が此処に。
途端、責任者の男を筆頭とした城の使者達全てが彼に向かって一斉に跪く。
「え・・・・・・?」
「言っただろう? また逢おうって」
訳が分からず立ち竦むリオにリョウが笑った。 しかも彼女が動けずにいるのを良いことに、リョウは素早くもう片方の足
に同じ靴を履かせてくる。 あの時、老婆に返したはずのガラスの靴だ。
「迎えにきたよ。 俺の花嫁」
全ては目の前で起こっているのに信じることができない。 義姉達によれば彼はロイヤルファミリーではなかったはずだ。
それなのに突然王子だなどと言われても信じられる訳がない。 だが確かに使者達は彼に対し敬意を払っており、なら
ばリョウの言葉は本当なのだろうか。
でも、彼には。
「・・・・・・想う女性が、いるって」
「君のことだ」
震える声で呆然と呟くリオに、リョウは躊躇なく答える。
ますます分からない。
「どうして? ・・・・・・あたしは、あなたに一度も逢ったことがないのに・・・・・・」
そうだ。 リオには一度として彼と出逢った覚えがない。 それが例えば子供の頃だったとしても、こんなに印象的な人物
を覚えていないとは考えにくい。
「それについては後で説明するとして・・・・・・とりあえず先に俺の妻になると頷いてくれたら嬉しい。
という訳で、前言は撤
回してくれるね?」
「あ・・・・・・」
戸惑うリオの手を取り熱っぽく見下ろしてくるリョウの瞳には、あの時と同じように紫の虹彩がきらきらと輝いている。
「・・・・・・黙っていれば好き放題。 いい加減にしていただけません?」
驚きと嬉しさの中で思わず二人の世界に入ってしまいそうになった時、義母の地を這うような低い声が聞こえてきた。
リオの思考がはっと現実に引き戻される。
そういえば自分は彼女の目指す目的の為に邪魔な存在なのだ。
しかしそんなリオの憂鬱とは関係なしに、事態は意外な方へと進んでいった。
「大体、王子。 あなたは、わたくし達を何処まで悪者にすれば気が済むんです?」
「・・・・・・お義母様?」
何やら様子が違う。 明らかに義母の怒りの矛先はリオではなくリョウへと向かっている。
しかも彼女の発した不可解な言葉に賛同するように義姉達がうんうんと頷く。
「あの・・・・・・それって、どういう・・・・・・」
発言から察するに、どうやら義母達は王子と以前からの顔見知りらしかった。
それだけでも驚きの対象なのに、更に彼女らを悪者にするとはどういうことだろう。
「本当はもっとリオを可愛がってあげたかったのに、全部あなたのせいですからね、リョウ王子」
「え・・・・・・?」
その言い分には流石にリオも驚いた。
継子に、あれだけ理不尽な境遇を強いてきた女性の言葉とは思えなかったからだ。
しかし、じとりと王子を睨む義母の態度に嘘や偽りは感じられず、怒りを露わにする彼女の表情は真剣そのもの。
では、今までのあれこれは一体。
リオから一歩も離れようとしない王子の側で、娘は思い切って義母親に疑問をぶつけた。
「あの、お義母様・・・・・・お義姉様達を、王子様に嫁がせたかったんじゃ・・・・・・」
「冗談!」
「こっちから願い下げよ!」
聞いた義母ではなく、二人の義姉が声を揃えて異を唱えた。
初耳だ。
「・・・・・・でも・・・・・・先ほど、あたしが彼に嫁すると決まった時、お義母様はあんなに顔を蒼くして・・・・・・」
「当たり前よ! 可愛い末娘を性質の悪い狼の餌食にするも同然だもの!」
義姉達と同様、義母も鼻息荒く断言する。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・えええ?」
何だか、思っていたのと全く違う。
「あの・・・・・・全然、話が見えないんですけど・・・・・・」
「リオ。 さっきの質問に答えるよ」
誰か説明して欲しいと思っていると、今度はリョウが口を開いた。
さっきの質問とは、リオとリョウが何処で接点を持ったのかという謎についてだ。
「この国の王族は代々民の暮らしを一番に考えてきた。 それが国力に繋がり、引いては未来への繁栄に繋がると思って
いるからだ」
確かにその通りだと、リオはこくんと頷く。
「その為には彼らの普段の暮らしぶりを知らなくてはならない。 城の中に篭っていては分からない事案が沢山あるからね。
そこで大切になってくるのが市井の見聞だ。 国の統治には欠かせない重要事項で、俺も次期王位継承者として父と共に
長く続けてきた。 もちろんあからさまに王族が従者を引き連れて歩いても本当の姿は見えてこないから、あくまでも世を忍
んでね」
「そう、でしたか・・・・・・」
これまた初めて聞く話だ。 まさか王族自ら市井に赴き民に寄り添っていたとは。
そこまで国を思う彼らをリオは改めて尊敬した。
「でも、それがあたしと、どう ―――― 」
「つまり、彼はそこで初めて見たあなたに一方的に想いを募らせたのよ。 ですよね? リョウ王子?」
リオの疑問を引き取る形で答えたのは誰あろう義母だった。
「しかも一年や二年なんて可愛いものじゃないわ。 それこそ、あなたがまだ幼い少女と呼ばれていた頃からよ」
リオは驚きに目を見開く。
「お義母様・・・・・・それは、いくら何でも」
あまりに突拍子もなさすぎて、思わず乾いた笑いが出てしまう。
義母親の話を総合すると、リョウは街で見かけたリオに一目惚れをし何年も片想いをしてきたということになる。
王家の、しかも眉目秀麗な王子が貴族とはいえ街中を走り回るような言ってみれば小娘に長年想いを寄せるなど到底
信じられず、違うと否定されるのを想定してリョウを見上げたのだが。
「・・・・・・・・・・・・」
彼は初めて言葉を交わしたあの夜と同じように嬉しそうな笑顔を見せている。
まさかの事実だったらしい。
「しかも、お忍びのはずの彼があっさり王子を名乗って、今すぐあなたを城に連れて帰りたいとか言い出したから絶対嫌だ
と断ったの。 そうしたら、どうなったと思う?」
「ど・・・・・・どうなったの?」
「あなたに目をつけ ――― もとい見初めた王子は、あろうことか私達を脅迫してきたのよ。
それならばリオが十八歳にな
るまで待つ。 その代わり、早く家を出たいと思わせるような策を講じろと。 あげく使用人の中に監視を潜り込ませるから速
やかに遂行するようにという念の入れようで、夫を人質に取られているも同然の私達は歯痒くも従うしかなかった」
「脅迫だなんて人聞きが悪い。 俺はただ、お願いしただけですよ。 それにリオの父君はただ純粋に王家に仕えてくれて
いるだけです」
「王子の身分を振りかざした時点で、紛れもない脅迫だと言っているんです」
「それは仕方がない。 必ず彼女を妻にすると心に決めてしまったので」
「毎年の誕生日も成人のお祝いもしてあげたかったのに、何もかもあなたのせいで台無しです」
「分かりました。 責任をとって娘さんは俺が一生をかけて幸せにします」
「頼んでません」
「・・・・・・・・・・・・えっ、と」
要するに。
義母に辛く当たられたのも、義姉達が冷たかったのも、どうやら全ては王家の監視のせいだったらしい。
話の流れから紛れもなく自分は当事者なのに、何やら巻き込まれた感が半端ない。
リオは頭が痛くなる気がした。
「そもそも、あなたが十八になった日の夜に舞踏会が開かれたのも全部この男の策略なのよ? 一分一秒でも早く逢い
たいとか何とかぬかして、どうにか阻止しようとした私達を出し抜き老婆に化けてまであなたを城へと向かわせたんだから」
「え?」
「あぁ、言ってなかったわね。 彼は魔法使いでもあるのよ。 しかも相当な手練の」
「ええっ!? あのお婆さんが、リョウ王子!?」
驚愕の事実が多すぎて、もう世の中の全てが信じられなくなりそうだ。
「あの日、大広間にいたのは彼が作り出した分身で、あなたと逢ってた方が本物だったの・・・・・・あなたが誰の関心も引
かなかったのは彼が目隠しの術を使ったからよ。 他の男の目に触れさせないようにね。 お陰で私もあの場にあなたがい
ると気付けなかった」
一生の不覚と、義母は大きく舌打ちをする。
「でも、どうしてそれをお義母様が知っているの? 今の話からすると、その辺の事情は分からなかったはずでしょう?」
「・・・・・・国からお触れが出た直後、私宛に彼から手紙が届いたのよ。 舞踏会での出来事が全て打ち明けられていて、
今度こそリオを貰い受けますとあったわ。 ガラスの靴に合う娘なんていう回りくどい手を使ったのは、王子が嫁にするに
相応しい特別な相手だと国中に知らしめる為よ。 全く、手の込んだことをしてくれるわ。
あなた以外の女性に靴のサイズ
が合わないようにあらかじめ魔法をかけておいて、従者達まで騙くらかしたんだから」
「・・・・・・・・・・・・」
手紙からは並々ならぬ本気度が伝わってきたので、これは自分に対する果たし状であると理解したと義母はきっぱり言
い切った。
「ちなみに、私達が舞踏会で着るドレス選びの時に大抵の貴族の娘が夢見るような、王子様にお会いするのが楽しみだ
わーとか、どんな方なのかしらーとかの話題が出なかったのは、こういう人だと知っていたからよ」
義母の暴露に続き、またも姉達はお互いにうんうんと頷き合う。
「・・・・・・・・・・・・」
「屋敷から出さなかったのは思春期を迎えたあなたに悪い虫を寄せつけない為。
毎日の掃除を強いたのは、あなたに家
への未練を残させない為・・・・・・・・・・・・どお? お望み通りに致しましたわよ? 王子様」
「心から感謝していますよ、未来の義母君」
「・・・・・・張り倒しますわよ?」
無理矢理口角を上げつつ不穏な空気を撒き散らすリオの義母を前にしても、悪びれない笑顔でリョウは礼を言った。
「権力にものを言わせて嫁を手に入れるなんて・・・・・・・・・・・・本当の本当に、こんな男で良いの? リオ」
「・・・・・・はい」
聞けば聞くほど常軌を逸している。 その想いが少し怖くもある。
でも、それほどの情熱を自分一人に向けてくれるのが嬉しいと感じてしまうのは、やはり彼に恋をしているからだ。
あの夜の熱い触れ合いを思い出し頬を紅く染めて俯く娘に何を察したのか、義母の顔がひくりと引きつった。
「・・・・・・王子様は、随分と手が早くていらっしゃいますのね」
「いえいえ、それほどでも」
「褒めてません」
義母の額にぴきりと青筋が立った。
「あ、でも・・・・・・リョウ様に一つだけ、お願いが」
「何だい? リオ」
結婚できるのも一途に想ってくれていたことも素直に嬉しい。 まさかこの初恋が実るとは思っていなかったから、感激も
ひとしおである。
でも ――――
「少しだけ・・・・・・一年間だけ、待って貰えませんか?」
「・・・・・・え?」
まさか保留されるとは思っていなかったらしく、ここにきて初めてリョウが焦った表情を見せた。
「・・・・・・やっぱり、性急すぎたのか? 手順が問題なら改めて求婚の段取りを
――――― 」
「違います!」
「・・・・・・リオ・・・・・・」
「違うんです。 そうじゃなくて・・・・・・」
王子に優しく手を取られたまま、リオは今の本当の気持ちを伝え始めた。
「あたし・・・・・・お義母様やお義姉様に初めて会った時のことを今でも覚えています。
もちろん鮮明にではないけれど、そ
れでも三人とも凄く優しかった。 でも、いつからかあたしに対する態度が変わり始めて・・・・・・・・・きっと皆が気に障るよう
な何かをしてしまったんだと、自己嫌悪に陥りました・・・・・・」
「リオ、それは ―――― 」
「分かっています、お義母様。 本当は、そうではなかったのだと」
悲壮感すら漂わせた様子で弁明をさせて欲しいというように口を開いた義母にリオは微笑む。
「さっき、誕生日や成人のお祝いをしたかったと言われて、あたし嬉しかった。
だって・・・・・・それはずっと自分が望んでい
たことだったから・・・・・・・・・・・・だから、せめて少しの間だけでもやり直したいんです。
普通に一緒に食事をして、お話をし
て、それから一緒にお買い物にも行ってみたい。 普通の家族のように・・・・・・良いでしょう? お義母様」
「リオ・・・・・・もちろん・・・・・・もちろんよ!」
「わたし達だって、ずっとそうしたいと思っていたわ!」
「ええ、そうよ!」
「お義母様、お義姉様・・・・・・」
人目も憚らず今にも泣き出しそうな瞳で末娘を凝視める彼女らに、リオまでつられて涙ぐんでしまう。
胸に何か温かいものが広がるのを感じながら目の前の王子を見上げる。
「だから・・・・・・一年間、あたしに時間を下さい」
その言葉にしばし沈黙した彼は、やがて言った。
「・・・・・・分かった。 それならその一年の間、過去の罪滅ぼしを兼ねて俺もこちらの屋敷に滞在させて貰うとするよ」
「・・・・・・え?」
リオは耳を疑った。 確かに今、彼がこの家に住むと聞こえたからだ。
だが、そんなのは一国の王子という身分から鑑みてもあり得ないし許される訳がない。
何より大前提として国王からの許
可が下りないだろう。
「え?」
「は?」
「今、何とおっしゃいました?」
それは、これからやっと本当の家族として過ごせるのだと喜んだ義母や義姉達も同様だったようで、むしろリオ以上に驚
き絶句している。
そんな中、当の王子だけが涼しい顔で着々と話を進めていく。
「金銭的な面も含めて決して迷惑はかけない。 どうしても護衛の存在だけは多少窮屈な思いをさせてしまうかも知れないけ
れど、それは妻になるリオも対象だから俺的にはむしろ安心できる。 人が増える分、使用人も城からまとめて派遣させよう。
もちろん全て一流の者達を」
「えーっと・・・・・・・・・・・・お義母様?」
ぐいぐいと押し迫られ、色々非常識すぎてついていけないリオは目線で義母に助けを求めた。
娘の期待に全力で応えようとする彼女は王子に対して苦言を呈す。
「・・・・・・良いですこと? リョウ王子。 あなたがどうされたいかはともかくとして、お父上であらせられる国王様がご子息を
一貴族の屋敷に一年も滞在させるなどお許しになるはずが ―――― 」
「父は諸手を挙げて喜んでくれています。 これまで二十四年間、全く女を寄せ付けなかった息子が初めて女性に興味を示
し更に結婚まで考えているなど青天の霹靂か神の奇跡。 相手が心変わりせぬ内に万事抜かりなく速やかに推し進めよと」
「・・・・・・・・・・・・国王様、騙されている」
一瞬にして撃沈され、ぼそりと呟いた義母の一言が此処に居合わせた全員の心の声だろうとリオは思った。
「ああ、それと。 夫婦になるのだから部屋は一緒で良いね。 リオ」
「え? あ、はい・・・・・・え?」
「良い訳ないでしょう!!」
とてもとても良い笑顔で爽やかに微笑まれ思わず頷いてしまったリオに、義母からの突っ込みが素早く飛んだ。
「嫁入り前で年頃の娘の部屋に変質者 ――――― もとい若い男性を同居させるなんて、わたくしは許しませんよ!?」
「何て言うか・・・・・・流石に嫁取りの方法が鬼畜な男は考えることが違うわね」
「ねー」
怒髪天を突く義母に続き二人の義姉がまた声を揃えた。
もはや彼女達の本音はだだ漏れだ。
「あなた達っ、義妹の貞操の危機に感心してる場合じゃありません!!」
「でも、彼女からの了承は得ましたので」
「ぐっ・・・・・・!」
言質を取ったと得意気なリョウは聞く耳を持たない。
腐っても王族、腐っても王子・・・・・・と念仏を唱えるようにぶつぶつと呟き始めた義母は、どうやら自らに何かを言い聞か
せているらしい。
その後、ふぅっと強めの息を大きく吐き出した彼女は、きっ、と王子を睨んで言った。
「・・・・・・分かりましたわ。 では不本意ながらそれは認めましょう・・・・・・でも、くれぐれも! 節度ある行動を、くれぐれも!
お願い致しますわ!」
「はい。 彼女を悲しませるようなことは決してしませんから、ご安心下さい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」
「何か、返答が微妙に噛み合ってなかった気がするわよね」
「ねー」
血管が切れそうな怒り具合の母親に二人の娘が追い討ちをかけた。
呆気に取られて居並ぶ使者達の存在はとうの昔に忘れ去られ、もう誰も目の前で繰り広げられる光景を止める者はいな
い。 おまけに知りたくなかった事実を次々と聞かされて既に涙目の彼らは、何も見てない聞いてないとそれぞれに目や耳
を塞ぐという何処までも王子に対して献身的な有様で実に痛々しい。
「それよりも、一年後こちらから城に移った後は子供が産まれる度にご家族を招待しますから、是非遊びにいらして下さい」
「・・・・・・それよりも? ・・・・・・産まれる度? ・・・・・・・・・・・・ほほほ、有難き幸せですわ」
重要であるはずの約束事を羽根の軽さで脇に追いやり、高らかに子作り宣言をする王子はもはや無敵。
恥ずかしいと恋に瞳を潤ませる未来の妻を、羽交い絞めにでもしそうな勢いで後ろからがっちり掴んで離さないリョウは
満面の笑みだ。
式すらまだ挙げていないのにもう子供の話をし、しかも子沢山になる気満々な男の嫁への凄まじい執着と熱量を感じた
のか義母は、結婚したが最後、娘は文字通り愛の巣という名の寝室から出られないのではないだろうかという当たらずと
も遠からずな不安をあからさまに顔に現し頬をひくつかせて、嬉しいなんて微塵も思っていませんという表情で王子に形
ばかりの礼を言った後ぼそりと呟いた。
「爛れた夫婦生活が目に浮かぶようだわね・・・・・・」
更に、嫁になる前の懐妊の報告は絶対に受け付けないと釘を刺した義母の言葉にリョウが頷かなかったことで彼女が
激怒したのは言うまでもなく、そんな彼女の憂いが的中し数ヶ月後に早くも身篭ったリオに両者の明暗が分かれる事態が
くるとは推して知るべしである。
* * * * * * * * * *
午後の優雅なひととき。
晴れ渡り澄み切った青空の下に設けられたテーブルでお茶とお菓子を囲みながら、楽しいお茶会には程遠い空気の中で
リオの義母が未来の息子をぎろりと睨みつけた。
「・・・・・・わたくし、言いましたわよね? 節度ある行動をお願い致しますと」
「ええ。 ですから浮気はしていませんし、する気も更々ありませんし、もちろん側室を迎える日も未来永劫絶対に来ません」
「そういうことではございません!!」
義母が、だんっ! とテーブルを叩いた瞬間、二人の前に置かれたカップの中の紅茶が激しく波打った。
それもそのはず、まだ全然目立たないリオのお腹の中には既に王子の子供が宿っており、約束の一年までにはまだ大分
あるというのに早くも娘が孕んでしまったと知った義母は、元凶であるリョウを前にして怒り心頭だからだ。
「・・・・・・よりにもよって、結婚前に妊娠させてしまうなんて・・・・・・」
二人の同居は世間に対し秘密裏。 現在リオは王子の結婚相手として国民に認知されているが、政務上の都合で式は一
年後と発表している。 つまり今の段階でリオはまだ王子の婚約者という立場であり、妻となる日を夢見る深窓の令嬢なの
だ。
この醜聞が世に知れたら傷つくのはリオだと娘を想う義母に対し、リョウはいつも通りきっぱりと言い切った。
「そこは抜かりありません。 我が王家が総力をあげて秘密の漏洩を阻止しますから。 もし万が一にも知り得た者には綺麗
さっぱり跡形もなく消えて貰いますので、ご心配なく」
「権力の使い所が間違っております。 それと無益な殺生はお止め下さいませ」
王子への遠慮のない突っ込みも、既に日常の一部と化している。
「ああ、それにしても、産まれてくる子供が今から楽しみで仕方がありません。
男でも女でも、きっとリオに似て可愛いんで
しょうね。 それこそ、食べてしまいたくなるくらいに」
「・・・・・・あなたがおっしゃると、洒落にならなくなりそうですわ」
「彼女と俺の愛の結晶が誕生すると考えただけで、歓喜に身震いがするほどです」
「・・・・・・・・・・・・」
変態がいる。
陶酔したように明後日の方向に視線を向け、うっとりとした様子で実際に身体を揺らす男を見て義母は思った。
「ところで、あの娘は一緒ではありませんの?」
此処には彼女と王子の二人だけ。
普段から片時も離れようとせず、何をするにもリオと連れ立とうとする男にしては珍しいと何気なく聞いてみたのだが。
「ええ。 彼女はちょっと・・・・・・少し身体が疲れているようでして部屋で休んでいます」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうですの」
にこやかに、そして爽やかに笑うリョウの言わんとするところを察し思わず目を据わらせる。
どうやら結婚後どころか、既に現在進行形で寝室から出られないらしい娘の行く末がとんでもなく不安な義母である。
「・・・・・・妊娠中は、ほどほどになさいませ」
「はい。 決して無理はさせませんから、ご安心を」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
無理はさせないなどと、今まさに未来の妻となる身重の女性をベッドの住人とさせている張本人が何を言うかと呆れて
ものも言えない。
出産まで房事は控えると言わないところが安心できない要因なのだと、義母は声を大にして主張したかった。
緩やかに、気持ちの良い風が吹き抜け二人の髪を揺らす。
それにしても、と紅茶を口にしながら彼女は考える。
実質上の夫婦となってからというものの、清楚でありつつも日に日に娘は女としての艶を増していく。
それが目の前に座る男のせいだと思うと複雑でもあったりするのだが、彼女はきっと末永く夫の愛に満たされ誰もが羨
むほど幸せになれるのだろう。
これは予感というより絶対的な確信だ。
そういう意味では、これほど頼もしい男は他にいない。 間違いなく優良物件である。
本人にその自覚はないだろうが、娘は本当に良い男を捕まえたものだ。
「・・・・・・リオを、お願いね」
母親の顔で心からの願いを伝えると、世界一の幸せ者は自分だとでも言いた気に嬉しそうにリョウが微笑んだ。