初 体 験






「さあさあ! 寄ってらっしゃい観てらっしゃい!」

 街の中心部を交差するように広がった大通りを行き交う人々のざわめき。

 喧騒にかき消される事も無く、そこに一際大きな声が響き渡る。

 賑わいを見せるそのメインストリートの一角にはこんこんと豊かな水を湛える大きな噴水があり、しばし観光客の目を

楽しませていた。

 先程の声は、そこから少し離れた所にある石畳の広いスペースに置かれた、風変わりな車から聞こえてきている。

 その声と共に流れてくる弾むような楽しげな音楽。

 旅芸人、ダンデライオン一座である。

 団長と思しき人物の巧みな口上と、目の前で繰り広げられる様々なパフォーマンスに惹きつけられるようにして、道行く人達は

次々と足を止めては感嘆の声を上げ始めた。







「さぁ! それではお待ちかね! 我がダンデライオン一座が誇る奇跡の舞姫! ナージャ嬢の登場です!」

 広場を埋め尽くす程の観客の拍手の中、ナージャと呼ばれた少女は軽やかな足取りでその姿を現した。

 情熱的で、それでいて物悲しげな曲に合わせて、真っ赤なフラメンコの衣装を身に纏った華奢な少女が踏む力強いステップ。

 心の奥に秘めたものを訴えかけるかのような彼女の踊りに、集まった人々の視線は釘付けになり、いつしか聞こえていたはずの

たわいないお喋りも消え、ただ静まり返る。

 そして ―――

 大勢の観客の中に紛れてその光景をじっと見つめていた少年の瞳にも、舞台の上で一人舞う少女は以前よりも幾分大人びた

様子で、眩しいほど輝いて見えた。

 ――― 刹那、交わされる二人の視線。

 少年の姿を見つけた彼女の瞳が大きく見開かれ、泣きたくなるような切ない表情が一瞬だけ浮かぶ。



 踊り子の舞は続く。



 やがて息を弾ませた少女の動きが音楽と同時に止まった瞬間、歓声と共に大きな拍手が沸き起こった。

 紅潮した頬に満面の笑みを湛え、沢山の賛辞を受けながら少女は舞台の袖へと消える。

 全員でのフィナーレを終えた後、彼女が逸る心を抑えるようにして急いで着替え裏口から外へと飛び出すと、そこには逢いたくて

たまらなかった人が笑顔で立っていた。










「キース!」

 呼ばれた少年が返事をするよりも早く喜びを隠せないように抱きつくと、優しくて大きな手が少女の背に回されてふわりと

包み込まれる。

 ずっと待ち焦がれていた存在から伝わる少しも変わらぬ温もりに、愛おしさがせり上がってきて息がつまりそうになった。

「ナージャ、元気だった?」

「うん・・・・うん・・・・っ!」

 ナージャの瞳に涙が溢れて、恋人の胸を熱く濡らす。はらはらと零れ続ける雫に、キースの胸がツキンと痛んだ。

 寂しい思いをさせてしまった彼女を憂い、離れていた時間を埋めるかのようにきつく抱き合う。

 黒バラとしての存在を消し、そのほとぼりが冷めるまでと姿を隠していたキース。

 想いを寄せ合い、初めて心を通わせた日の夜から、もうどのくらい経っただろうか。

 柔らかな頬に流れる涙をそっと拭って見つめ合えば、その唇は自然に重ね合わされる。

「んっ・・・・」

 与えられる熱に応えるように、ナージャは精一杯伸び上がりその踵を浮かせた。

 少年から青年への過渡期の為か、キースはより男っぽさを増し男性特有の色気までをも感じさせた。

 少し見ない内に心なしか、いや、確実に背も高くなり逞しくなっている。

 その証拠に、口づけの角度も抱きついた背中も以前とは微妙に違う。

 自分との絶対的な差を更に目の当たりにし、ナージャは胸が高鳴るのを抑えられなかった。

「なかなか逢いに来られなくてごめん。思ったよりもまだ監視の目が厳しくて・・・・」

「ううん、いいの。来てくれただけで嬉しい」

「ナージャ・・・・」

 長い間一人にさせてしまい随分と寂しい思いをしたはずなのに、それでも笑顔を向けてくれる愛しい少女。

 けなげに潤む瞳に吸い寄せられるように、二人の顔がまた近付こうとする。

「おいおい、お二人さん。ラブシーンは場所を選んでやって貰えると有り難いんだがなぁ」

「!」

「だっ、団長!」

 世界に入ってしまった二人を現実から引き戻したのは、からかうような口調でポリポリと頭を掻くゲオルグの声だった。

 独り者には目の毒だぜ、と苦笑しながら、彼はキースの姿をとらえるとニヤリと笑った。

「初めまして・・・じゃねぇよな」

「ええ。以前に一度」

 そう言って微笑んだキースの腕が解かれる事は無く、抱き締められたままのナージャは恥ずかしそうに俯いた。

「あ、あの・・・・キース・・・・腕を・・・・」

「ん? 何?」

「・・・・何でもないです・・・・」

 魅惑的に微笑んだその人の腕にいっそう力が込められたのを知り、 「離して」 とは言えなくなってしまう。

 ゲオルグの笑みが少しだけヒクっと引きつった。



 な・・・・何だろう・・・・。何だかよく分からないけど・・・・い・・・・居たたまれない・・・・。



 これまでに感じた事の無いような場の雰囲気に、ナージャは思わずたじろいだ。

「これからナージャをお借りしても宜しいですか?」

 物腰柔らかく穏やかに微笑むキース。

 それだけを見たら、きっと世のご婦人方は一発で落とされるんだろうと、ゲオルグは感心しながらそう思った。

 だが・・・・。

「駄目だ・・・・と言っても、お前さんは聞かないだろうな」

「そうかも知れませんね」

 意識しているのか、いないのか。

 キースの言葉と表情の中には、表面化しないものの、何かしら読めない雰囲気が混じっている。

 無意識なのだとしたら、相当なくわせものだ。



 黒バラの名は、伊達ではないという事か・・・・。



「・・・・何てな。俺だって久しぶりの恋人同士の逢瀬を邪魔するほど無粋じゃないつもりだ。今日の公演はこれで終わりだし、

ゆっくりしてくるといい」

「団長・・・・」

「有難うございます。それじゃあ、お言葉に甘えて」

 軽く会釈をして、キースは愛おしそうにナージャの肩を抱いた。

 視線を交わし合うその表情は見ている者まで幸せにしてくれるような、そんな、温かくて優しいものだった。

 小さくなっていく二人のシルエット。

 やがてその姿が完全に見えなくなると、ゲオルグは空を見上げて一人感慨に耽った。

「世界で唯一・・・・か・・・・。いいもんだ」

 たった一人の為だけに、紳士であればそれでいい。

 あの男はそれを貫くだけの強さを持っている。

「俺の人を見る目は確かだったらしいな」

 ゲオルグはそう自画自賛すると、機嫌良く鼻歌を歌いながら、からくり自動車の中へと戻っていった。










「君はどうやら、凄く大切にされてるみたいだね。分かってはいたけど安心した」

「え? そ、そう・・・・なのかな?」

 若葉が目に眩しい新緑の中。

 ナージャはキースにしっかりと手を握られて、木々の葉がそよ風にさざめく公園内をゆっくりと歩いていた。

 公園の中央には、あまり高くはないものの綺麗に芝を敷かれた小山があり、走り回る子ども達の楽しそうな笑い声が響く。

 そのぐるり周りを囲むようにつくられた石畳の遊歩道を進んでいくと、ときおり犬の散歩をする人とすれ違う。

「さっきの団長の態度。あれはまるで、娘を攫っていく男に対して割り切れない嫉妬をする父親のようだったよ」

「まさか」

「いーや、絶対そうだった」

 自信満々に言い切るキースの言葉に、ナージャは先程の光景を思い浮かべた。

 そういえば、何となく面白くなさそうな顔だったような気も・・・・。

 ウィーンに住む母と離れて旅をするナージャにとって、ゲオルグは父親、団員の皆は家族同然。

 常日頃からそう思っている彼女にキースから聞かされる事実は、くすぐったくも嬉しく感じられた。

「ナージャ」

 呼ばれてふいに視線を上げると、いつの間に離れていったのか、自分よりも少し先を行くキースに「おいで」と手招きをされる。



 や・・・・やだ・・・・あたしってばつい・・・・。



 仲間達と過ごした今までの生活を思い出しているうちに、どうやら思考の世界に入ってしまっていたらしい。

 苦笑するキースにほんの少し顔を赤らめながらナージャが小走りに近付いていくと、そこには、まるで恋人達の為に

作られたかのような、二人掛けの可愛らしいベンチが置かれていた。

「さぁどうぞ、お嬢さん」

「あ・・・・有難う」

 広げられた白いハンカチへと促されて、その大人の女性として扱われる事への気恥ずかしさに顔が熱くなるのを止められない。

 言われるまま腰掛けたナージャの横に寄り添うように、キースもゆったりと腰を下ろしその背を預けた。

 そっと見上げるように彼の方を見れば、綺麗に整った横顔がすぐ側にあって、ドキドキと高鳴る胸の鼓動が聞こえて

しまわないかと思うほどで。

 それでも、もっと近付きたいと願う大好きな人。

「・・・・どうかした?」

「えっ?」

「いや、何か言いたそうにしてると思ったんだけど」

 熱心に見つめてくる視線に、たまらず照れくさそうに笑ったキースが優しく彼女の唇の辺りを軽く撫でた。

「あっ・・・・あのっ・・・・」

 いつかの愛撫を思わせるかのような指の動きは、ナージャを混乱させるに充分なものであり。

 そんな彼女の慌てぶりがあまりにも可愛くて、ついつい彼のいたずらな心は煽られるままになってしまう。

「ナージャ・・・・?」

 視界を遮るように覆い被さった彼に熱っぽい瞳まで向けられて、まるで全身が心臓になってしまったような錯覚に囚われる。

「っ・・・・あたしっ・・・・たくさん言いたかったの・・・・」

 細い指先が、彼の上着をぎゅっと掴んだ。

「会ったら、いっぱい話したい事があったの・・・・聞いて欲しい事も、たくさんあったの・・・・・・でも、いざ目の前にしたら・・・・

胸がいっぱいで・・・・もう・・・・何を言えばいいのかっ・・・・・」

「ナージャ・・・・」





 焦がれる想いに胸を痛め続けた。

 張り裂けそうになる心を必死で押し止めた。

 いっそ我儘を言ってしまいたかった。

 この愛の為に、世界が壊れてもいいと思った。





「ナージャ・・・・もういい・・・・もういいから・・・・」

 募る愛しさは溢れ出し、体の隅々までを満たし始める。

 ふっくらと色付く唇に自分のそれを重ねようとした時、キースはふと思いついたように彼女の帽子をスッと持ち上げた。

「・・・・・?」

「・・・・・・こうすれば、俺と君の二人だけだ」

 彼は、自分達と外界を遮断するようにして帽子で影を作る。そうして人の視線から逃れた部分は、まるで本当に

二人きりになってしまったような錯覚を起こさせ、いつの間にか人々のざわめきも意識の中から薄れていく。

「ただいま・・・・ナージャ・・・・」

「お帰りなさい・・・・キース・・・・」

 お互いの舌を何度も絡めて、想いを確かめ合う。

 時折愛を囁きながらの行為はとても甘く、幸せな夢に浸っているようだった。

 もう二度と醒めないで欲しいと祈るように ――――










 それから、どれくらいの時間がたったのか。

 まだ見たことの無い異国の地の話に、ナージャは目を輝かせながら夢中になっていた。

 気が付けば、陽が傾きかけた公園からは徐々に子ども達の声が消えていき、歩く人の姿もまばらとなり始める。

 みな、それぞれの家路へと向かう頃だ。

「もうこんな時間か・・・・。ナージャ、あまり遅くなるとみんなが心配する。そろそろ戻ろう」

「うん・・・・」

 名残惜しくはあったが、ナージャは彼の言葉にこくんと頷く。



 うん、そうよね。何も今日でまた会えなくなる訳じゃないし・・・・また、明日会えばいいんだから。



 キースに促されて立ち上がろうとしたその時。

 突然、彼女は言い様の無い違和感をその体に感じた。全身が総毛立つような。怠く、重く、鈍い痛み。

「っ・・・・・あ・・・・・・?」

「・・・・どうした? ナージャ」

 常に無い彼女の様子にキースが眉を寄せる。

「何だか・・・・お腹・・・・が・・・・・・・・・痛っ・・・・・っ!」

 表情を歪めて腹部の辺りを両手で押さえたナージャは、屈み込んだまま崩れるように石畳へと座り込む。

「ナージャ!? どうしたんだ! ナージャ!」

 状態を確認する為に、華奢な肩をゆっくりと抱き起こしながら彼女が痛みを訴える部分に目をやると、ふとあるものが瞳に映る。

 少しだけ捲れ上がった衣服から覗く、細身で柔らかな脚。そこにあったのは、ツゥッと糸をひくように流れる、赤い液体。

「これは・・・・」

 思わぬ事態に僅かに混乱しかけたキースだったが、やがてあることに思いあたる。

 ・・・・病ではない。彼女は、多分 ――――

「・・・・ナージャ、もう少しだけ、我慢してくれ」

 まずは体を休める事が先決だ。

 キースは彼女の体をそっと抱き抱え、なるべく負担を掛けないよう気遣いながら家路を急いだ。













 パタン、とドアの閉まる音に、キースはハッとしたように顔を上げた。

「・・・・ナージャの具合はどうですか?」

「安心して。今はぐっすり眠ってるわ」

 シルヴィーはそう答えて、心配そうに彼女を憂うキースに向かい笑みを見せる。

 その様子に、彼は 「良かった・・・」 と一つ、安堵の溜め息を漏らす。

 ――― あれから。

 ナージャをダンデライオン一座へと運んだキースは、あまり大事にならないようアンナとシルヴィーだけにそっと事情を説明し、

彼女を部屋へと連れて行った。

 これは、自分が口を挟める事ではない。

 とりあえずの現況だけを伝えた後は彼女らに全てを任せ、彼は静かに室外で待機していた。

「・・・・あなたは全部、理解してるのかしら?」

「はい」

「そう、それなら何も言う事は無いわ」

 キースの答えが満足のいくものだったのか、シルヴィーはにっこりと微笑んで目の前のドアを静かに開ける。

「さっき薬を飲ませたから、もうほとんど痛みは無いはずよ。でもまだ安静にしてて貰わないといけないから、なるべくそっと

しておいてあげてね」

「分かりました」

 彼女の言葉に頷いて室内へと歩いていくと、キースの耳に静かな寝息が聞こえてくる。

 言われた通り既に痛みは引いているらしく、先程までの青白い影は姿を潜め、ナージャの頬にはいつもの赤みがさしていた。

 彼に部屋を預けて退室しようとしたシルヴィーだったが、ドアを閉めながら、そこで彼女はキースに思いがけない提案を

持ち出した。

「ああ、それから、今日はここに泊まっていくといいわ。団長にはあたしから話しておいてあげる。目を覚ました時一人だと

心細いだろうから、側に居てあげて」

「いや、でも、それは・・・・」

 いくら他に人がたくさん居るとはいえ、仮にも男女が同室で夜を共にするのはまずいだろうと思ったのだが。

「大丈夫よ、あなたを信じてるわ。じゃ、宜しくね」

 それだけ言うと、彼女は今度こそ本当に部屋を後にする。

「・・・・そこまで信頼されてると、何だか気が引けるな・・・・」

 ナージャとは既に想いを交わしている。それを知ってか知らずか自分に向けられた言葉に、キースの心は何だか複雑だった。

 それでも、こうして愛する少女の側に居られることが嬉しくない筈がない。

 ここは好意に甘えさせて貰おう。

 穏やかな寝顔で横たわる彼女のベッドの端を軽く軋ませて腰を下ろすと、その流れるような金色の前髪をそっと掻き揚げる。




 以前よりも、ずっと女らしくなったと思う。時折見せる、驚くほど艶っぽい表情に戸惑ったりもした。

 会う度にその成長を目の当たりにし、それがとても眩しかった。

 そして今日、彼女が大人の女性へとまた一歩近付いたことを知る。

 緩やかな歩みで、でも確実に美しくなっていく彼女がずっと自分の隣で微笑んでいてくれたら。

 望みはあまりにささやかで。

 けれど、それはこの世で誰もが手に入れられるものではない、とても大きな願い。




「・・・・キー・・・・ス?・・・・」

 何度かそうして髪を梳いていると、その存在に気が付いたのか、ナージャはうっすらと瞳を開いて呼びかけてくる。

 薬のせいでまだ意識がはっきりしないのだろう。彼女の視点は定まらず、まだ夢うつつのようだった。

「・・・・具合はどう? ナージャ」

「・・・・・うん・・・・・もう平気・・・・・ずっと・・・・・側に居てくれたの?」

「ああ。シルヴィーが団長に頼んでくれてね。ここに泊まってもいいって言ってくれたんだ」

 名前を呼ばれ彼の姿を確かめることで徐々に覚醒し始めると、ナージャは掛けていた毛布を顔の半分くらいまで引き上げ、

瞳をキュッと閉じた。

「どうした? まだ、どこか・・・・」

 キースの言葉にふるふると首を振ると、彼女は僅かに恥らいながら口を開く。

「あの・・・・あたしね・・・・・大人になったんだって・・・・さっき、言われたの・・・・。この痛みは、その証なんだって・・・・」

「ああ・・・・おめでとう、ナージャ・・・・」

 大切に大切に、慈しむような瞳で見つめられて、彼女の笑みは一層ほころぶ。

 自分の体が女へと変化を遂げたことが男性であるキースとの違いをますます意識させてしまい、彼の視線から全てを

隠してしまいたいほど恥ずかしかったけれど、それと同じくらい、喜んでくれたことがとても嬉しかった。

「あたしがいつかお母さんになるなんて、まだ全然想像も出来ないけど・・・・・ここに、小さな命が宿るんだなって思ったら・・・・

何だか、嬉しいっていうか・・・・くすぐったいっていうか・・・・。お父さんと恋をして結ばれたお母さんも、きっとこんな気持ちに

なったのかなって・・・・・凄く、幸せだと思ったの・・・・」

 毛布の上から、そっと自分の手の平でお腹の辺りを撫でてみる。



 愛を受けたまあるい光は、きっと温かく、そして眩しいほどの輝きを放つのだから ――――



「・・・・・ナージャ。・・・・・すまない」

 それまで彼女の仕草を静かに見守っていたキースだったが。

「?」

「ちょっとの間だけ、俺の好きにさせてくれないか?」

 いきなり、何やら思いついたようにそう呟かれ、きょとんとした瞳で彼の動きを見ていると。

「キ・・・・キース? あの、ちょっ・・・・!」

「しー・・・・。大丈夫だから、少しだけ静かに」

 ナージャが慌てたのも無理は無かった。

 何故なら、彼の指が掛けられていた毛布をゆっくり剥いだかと思うと、おもむろに服の下に手を入れてきて腹部が見えてしまう

ほどの所まで捲られたからである。

 まさかここで抱かれるとは考えもしなかったし、何より、体調の悪い自分に彼がそんなことをするとも思ってはいないけれど。

 突然そんな恥ずかしい格好をさせられたナージャだったが、しかしそれを止めようとした手が伸ばされることは無かった。

「・・・・・キース?・・・・」




 降ってきたのは、静かなる口づけ。




 浅い呼吸を繰り返す彼女の下腹の辺りに彼の唇が近付いては離れ、白く柔らかな肌に何度も何度も落とされる。

 決して急ぐことなく、優しくゆっくりと与えられる惜しみない愛情。

 欲を目的としない、ただ愛おしむ為だけにもたらされる、まるで厳かな儀式のようだった。

「あ・・・・・・」

 甘く幸せな声を漏らす彼女へと腕が伸ばされて、絡められ重なり合った指先にそっと力が込められる。

 しばらくそうした後。

 彼女の衣服と毛布を元通りに直したキースの唇は、赤く熟れた果実を思わせるそれへと吸い込まれ、深く深く愛を伝えた。

 舌を絡ませ、吐息までをも絡ませて。

「・・・・どうして?」

 熱い口づけに酔わされても、聞かずにはいられない。ナージャはうっとりと潤んだ瞳で問いかけた。

「おまじない・・・・かな・・・・」

「おまじない・・・・?」

「君が、俺と共に・・・・この先の未来を歩んでくれますように」

 彼女の瞳が大きく揺れた。

 引き寄せられ、重なり合ったお互いの手。唇を押し当てられた手の甲から感じられる彼の想い。

 触れ合った部分は熱を帯び、やがて体の隅々までをも侵食していく。

「俺も君もまだ未熟で、これから学ばなければならない事や、やらなければならない事が沢山ある。そうして大人になった時、

今と変わらず側にいてくれるなら、君と二人で命を紡いでいきたい」

「キース・・・・」

 囁かれた言葉は、この世界でたった一人にだけ向けられる、真摯な求愛。

 やがて全てを飲み込んでしまう大きなうねりの中に身を投じたとしても、二人でならきっと、何もかも乗り越えられる。

「本当・・・・に・・・・?」

「もちろんだ。俺と君なら・・・・必ず・・・・愛してるよ・・・・ナージャ・・・・」




 恋をするのも、愛を育てるのも。

 全部、君とがいい。

 笑うのも、泣くのも、怒るのも。

 他の誰でもない、君と分かち合いたい。




 誓うように甘やかな口づけを繰り返す。

 シーツと背の間に腕を差し入れ優しく抱き込み、彼女が両腕を首に回したことで、よりいっそう体を寄せる。

「ずっと・・・・こうしていたい・・・・・」

「それは・・・・明日の朝、きっと俺に非難の嵐がくるだろうな」

 言葉とは裏腹にキースは嬉しそうにくすくすと笑いながら、 「それでも甘んじて受けてやる」 と、彼は少女の横に空けられた

場所へと滑り込んで、そっとその温もりを抱き寄せた。










 キースは思う。

 今は、人々の中から自分の存在が消え去る日が来るのか否かも分からない。

 彼女をまた一人にしてしまう事への痛みも、次第にその大きさを増していく。

 それでも。

 それでもいつか。

 光は必ず降り注ぐのだと。

 祈りとも願いとも思える感情を抱え。

 抱き締める腕に力を込める。





 こののち、彼は時を置かずしてロンドンへと戻る事になるのだが、本人はもちろん、ナージャにとっても、それはまだまだ

現実のものではなかった。








                                                                END




       ********************************************************************

               黒バラが姿を消してから数ヶ月後のお話。
               ナージャが大人の女性になりました。(^^;
               もうすぐキースはロンドンへ帰国できますですよ。
               良かった良かった。て、全部おのれのせいじゃ。(−−;