モーニングコーヒー












 朝の心地良いまどろみの中、ベッドの上で男はぼんやりと意識を取り戻し始めた。

 カーテンの向こうからは柔らかな陽射しが差し込み、その暖かさは、この極寒の大地にさえ短いながらも等しく春が訪れるのだと

教えてくれる。

 しかし、それは既に朝特有の眩し過ぎるものとはかけ離れた光。 この分だと、もはや早朝とは言い難い時間になっているのだろ

う。 朦朧とした頭でサイドテーブルに置かれた時計に目をやる。 示す針は九時。 やはりな、と男は苦笑した。

 職業柄、普段の自分ならこれほど熟睡するなどありえない。 ましてや、いくら休日だからといってこんな時間まで寝過ごすなどと。

 どうやら自分が思っている以上にかの存在は大きかったらしいと、男は改めて思い知る。

 まだ完全に覚醒しきれていないままの腕が、無意識に隣にあるはずの、その当事者たる温もりを探す。 だがいくら動かしても腕

はシーツの上を空虚に滑るだけで、己を甘い陶酔へと導いてくれる存在は確認できなかった。

 その事実にはっきりと目を覚ました男はむくりと起き上がり広い室内を見回したが、やはり何処にも居ない。

 ふと、不安が過る。

 昨夜の幸せな一時は、全て夢だったのではないか。 焦がれるあまりの願望が見せた、都合の良い妄想だったのではないか。

 ベッドに残された間違えようも無い痕跡を知りつつそう思えてならないのは、愛しいものがいつか己の手をすり抜けていってしまう

のではないかという焦りに他ならない。

 この手に確かに掴んだと、どこかで未だに確信できない自分がいる。 理由はひとえに恋人の言動。

 恋愛は惚れた方の負け。

 そんな戯言を信じている訳ではないが、しかし何かにつけて振り回されている今の状況を考えると、あながち嘘ではないのかも

知れないと思ってしまうのもまた事実。

 自分ばかりが、愛しさを募らせているのではないかと。









「お目覚めですか?」

 カチャリと寝室のドアが開くのと同時に柔らかな声が掛けられ、それと共に香しい香りが漂ってくる。

 ベッドを抜け出し、大きめの白いシャツを一枚羽織っただけの恋人の手には、熱い湯気を立ち昇らせたコーヒーカップが二つ

収められていた。

 男の顔が、あからさまにほっとした表情を作る。

「おはようございます、ガウェイン様」

「あぁ・・・・・・おはよう、ロゼータ」

 にこやかに微笑んだ彼女の表情が朝の光に溶け込んでとても美しく見え、いつになく戸惑いを覚えた自分の心を隠すように、

ガウェインはゴホンと一つ咳払いをして動揺を抑え込んだ。

「どうかなさいまして?」

「い、いや・・・・・・その、何だ・・・・・・・・体の方は、何ともないか?」

「ええ、大丈夫です」

「そ、そうか」

 矛先を躱そうと恋人の体を心配する言葉を発したものの、その原因も元を辿れば当然己のせいであって、お互い初めてなの

にも関わらず相手を気遣う余裕が持てなかったことに今更ながら思い当たり、慙愧に堪えなくなったガウェインは、まるで怒って

でもいるかのような不機嫌な顔を見せた。

 途端、そんな男の態度にロゼータがクスクスと笑いを漏らす。

「・・・・・・何が可笑しい?」

 分かっていても、ついつい恨みがましい視線を送ってしまうガウェイン。

 拗ねて不貞腐れた子どものようだと思いながら、それを宥めるように彼女は 「ごめんなさい」 とにこやかに笑う。

「いえ、ちょっと思い出してしまって・・・・・・。 ガウェイン様があんなに激しい方だなんて、知らなかったものですから」

 そう言って艶やかに微笑むロゼータの身体には夕べの熱い情交の名残りが見え隠れし、点々と広がるいくつもの鬱血の跡

が、その交わりの深さを物語っていた。

「・・・・・・い、言ってくれるな・・・・・・余計恥ずかしくなる・・・・・・」

 頭をガシガシと掻きながら、ガウェインはそっぽを向く。 だが、耳元から首筋まで真っ赤になった状態は隠しきれる訳もなく、

それが尚一層ロゼータの笑いを誘い、ガウェインは赤く染まった顔でばつの悪そうな表情を浮かべた。

 ただでさえ、この年で女性と想いを交わす行為が初めてだなどと、周囲から見れば生きた化石とでも言われそうな男だ。

 こんな状況に慣れているわけもなく、非常にいたたまれず身の置き所が無い。

 そんな想い人の姿を微笑ましく見つめ、ロゼータは手にしていたカップをサイドテーブルへと置き、ほんの数十分前まで自分も

横たわっていた彼のベッドに腰掛ける。

 スプリングが、ギシリと音を立てた。

 それだけで、もう先程までの和やかな空気は何処かへ消えてしまう。

 見つめ合う先に流れるのは、甘く淫靡な吐息。

 熱っぽく濡れた瞳に捕われ、ガウェインは武人らしいごつごつとした指をそっと伸ばし、愛しい人の身体を優しく引き寄せる。

「んんっ・・・・・・」

 唇が触れた瞬間、激しく相手を求め合った。

 舌を吸い上げ、絡ませ、熱い液を交換させて。

 口づけだけでは飽き足らず、ガウェインは目の前に差し出された白い喉元に噛み付くような愛撫を施す。

 何度も何度も繰り返し。

 欲しくてたまらないと、全身が悲鳴を上げていた。

「あっ・・・・・・はぁ・・・・・・」

 ひとしきりお互いを貪りあった後、ゆっくりと身体を離す。 赤く濡れたロゼータの唇が、とてつもなく艶かしい。

 瞳を潤ませ、息の上がった彼女と指を絡ませようとした時、ガウェインは思わず目を瞠った。

 剣を持つとは到底思えない白く細い手首には、情事の際よほど強く掴まれたのか、はっきりとした痣が浮かび上がっていた。

「・・・・・・ガウェイン様?」

 一点を見つめる男の視線にはっとする。 ロゼータは酔わされていた熱が引き始めていくのを感じた。

「あ・・・・・・これ、は・・・・・・」

 慌てて腕を引いても、もう遅い。

 後悔の色を表情に滲ませたガウェインを見て、彼女は己の迂闊さを呪った。

 恋人にいらぬ気使いをさせてしまうと分かっていたから、さりげなさを装い隠していたのに。

「もしかしなくとも、俺が付けたものだな・・・・・・」

 痛々しい白い手首を数度撫で擦るガウェインの瞳が翳る。

 自分の想いに応えてくれた。 何よりも嬉しかったその事実に、それは我を忘れた証だった。



 ―――― 今の今まで気付かなかったとは。 浮かれ過ぎていた己の愚かさに腹が立つ。



「すまない・・・・・・・・柄にも無く舞い上がって、お前に負担をかけてしまった。 もっと、優しくしてやるつもりで、俺は・・・・・・」

「ガウェイン様・・・・・・」

 自己嫌悪に項垂れる男に、それは予想外の出来事だった。

 「っ・・・・ロゼ ――― 」

 「黙って・・・・・」

 ガウェインの顔が、柔らかな膨らみにそっと押し付けられる。

 女性の象徴の温かさ。 加えて、頭部に回された両手の感触の心地良さに、ガウェインはただ静かに身を委ねた。

 お互いの温もりだけを感じ、穏やかな時間が流れていく。

 やがて、その静寂の中にロゼータの控えめな声がふわりと広がった。

「私は・・・・・・嬉しかったんです」

 ゆっくりと体を離し、ロゼータは艶やかな笑みを浮かべ、愛しい男の瞳を覗き込む。

「ロゼータ・・・・・・」

「だって、それだけ強く私を求めて下さったからでしょう? ・・・・・好きな人に抱かれて、愛されて。 私は、嬉しかったんです。

あなたの残してくれたもの・・・・・・。 全てが、嬉しいんです・・・・・・」

 頬を染め、はにかむロゼータに、「そうか」 と幸せを噛み締め破顔したガウェインだったが、すぐに何やら思案を巡らせ始める。

 そう。

 彼は当面の現実問題に、はたと行き着いたのだ。

「・・・・・・手袋をすれば隠れるとしても、流石に食事の時は・・・・・・となれば、ここは俺が何とか・・・・・・」

 二人きりでの暮らしならいざ知らず、ここはまがりなりにも王宮。

 誰かに見咎められれば必ず説明を求められる。

 しかし、この状態では何をどう言い訳しても無駄だろう。

 何やらぶつぶつと、あーでもない、こーでもないと頭を悩ませるガウェインを、ロゼータは静かに見つめる。

 瞳を伏せ、そして呟いた。




「安心して下さい。 責任を取ってくれなんて、言いませんから」




 ガウェインの時が、突然止まった。

 世界を取り巻く音という音が一瞬にして消え去る。

 己の鼓動さえも、耳に入ってこない。

 何を言われたのか、よく分からない。

「な・・・・んだと・・・・?」



 ――― 彼女は、いま何と言った?



 ロゼータの笑みは浮かんだまま。 だが、その瞳は男を映してはいない。

「・・・・・どういう・・・・・・・ことだ・・・・・・?」

 喉に貼り付く声を振り絞る。

 今の今まで二人の間にあった筈の重なり合った空間が壊れていく。

「・・・・・・私は・・・・・・あなたに愛されたという、その事実だけで充分。 私の為に、あなたに余計な心労をかけたくないん

です。 ですから ―――― 」

「なっ・・・・・・・・何を言うかっっっ!!!」

 それまで穏やかだったはずの男の表情が一変する。

 一瞬怯んだロゼータの隙をつき、ガウェインは恋人の肩を力強く掴みベッドへと仰向けに押し倒した。

「っ・・・・・・ガウェインさ ――― 」

 弾みで数度跳ね返った身体を押さえ込まれた彼女の瞳が見開かれる。






 こういう時だ。

 想いを通じ合わせたはずなのに、彼女の言葉はそれらをいとも容易く覆してしまう。

 どんなにきつく抱き締めても、不安は決して拭い去れない。

 それが、今まさに目の前で起ころうとしている。







「・・・・・責任を取らせる気は無いだと? ふざけるな!」

 いつになく怒気を孕んだ男の態度。

 ロゼータは初めて、それが自身の失言によるものなのだと思い知らされた。

 そして、それが世界中で自分だけに与えられた幸福なのだということも。

「いいか、よく聞いておけ。 俺が妻にするのはお前ただ一人だ。 俺の想いを受け入れた以上、逃げる場所など何処にもないと

覚悟して貰うぞ。 どんなに嫌がろうが、泣こうが喚こうが、絶対に逃がしはしない。 もしイエスと言わないのなら、何度でも狂う

程お前を抱いて孕ませて、逃げられない所まで追いつめる。 ・・・・・・言っておくが、俺は本気だ」

 眉間に皺を寄せ残酷な言葉を吐き尚も詰め寄る男の力は、言葉とは裏腹に既に優しさの滲み出る普段のそれへと戻っていた。

 それに ―――― と、ガウェインは続ける。

「幸せな悩みなら、いつまででも与え続けて欲しい。 どうか、いつまででも」






 愛を知り、温もりを知った。

 もう、以前の自分には戻れない。

 愛しい人を失う恐怖に、きっと耐えられない。

 愛情は、人を強くもし、弱くもする。

 だからこそ、かけがえのない、大切な絆。

 お互いの手を取り、受け入れた。

 その瞬間から、二人の時間がいつ終わるとも無く流れ始めるのだ。







 一途な男の眼差しに、体の奥からどうしようもない感情が湧き上がり、ロゼータの表情が泣き笑いに歪んだ。

「本当に・・・・・・・あなたという人は・・・・・・」

 不器用で、優しくて、己の心を偽らない。

 本当の意味で強い男とは、きっとこうなのだろうと思わせる、そんな存在。

 その男が、自分でなくては駄目なのだと言ってのける。

 ロゼータは自分を見下ろすガウェインの頬に左手を伸ばし、そっと添えた。

「ロゼータ・・・・」

「もう一度・・・・・温もりを下さいますか?」

「・・・・・・・・・・一度しか、駄目なのか?」

 真剣にそう聞いてくるガウェインにロゼータは目をパチパチと瞬かせ、ふわりと微笑む。

「いいえ、何度でも・・・・・・」




 ――― 何度でも、愛して下さい ―――




 運ばれた琥珀色の液体は二つ並んだまま既に温かさを失っていたが、室内に揺らめく二つの影はいつまでも

冷めることなくシーツの海をたゆたい続けた。









                                                          END







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                   この世界にコーヒーがあるのかとか細かい
                   突っ込みは止めましょう。(笑)